新しい価値観

  最近の若い人の特徴は、既成の価値観にとらわれないということですね。いつの時代も、若者というと型破りなイメージを持たれるようですが、今の30代以上の世代を見てくださいよ。いかに周りに合わせたり、流行に敏感と言いつつも盲従しているだけであったり、空気を読むことだけに汲々としたりしていることか。
  若い世代は人から押し付けられたり、半ば命令されたりして、何かをさせられることに拒否感を示しますよね。「上から目線」に敏感で、忌み嫌うのは、日本人全体にそういう雰囲気がありますが、特に若者に顕著な傾向です。
  だから、貧乏から這い上がろうという、ハングリー精神には欠けるし、積極性がないとみられがちだし、実際にそういう面もあるのですが、実は自分がやりたいこと、こだわりたいことに対しては一途だったりします。
  個人主義で個性的だと言われる欧米人が、一皮むけば、そのように思い込まされているだけで、実は選択肢が限られていて、政治権力に完璧に支配されていたり、巨大金融資本の意のままに操られているのとは対照的で、日本人は案外自由を謳歌しているし、若者はもっともっと自由に生きています。
  ビートたけしさんだったと思いますが、ファッションなんかが象徴的ですよね。色彩とかスタイルとか、何となく流行感というのはあるんだけれども、最近の若い人は、あまり大きな流れに身をゆだねることもなく、自分の好きな、自分に合ったスタイルを楽しんでいると指摘されています。
  経済、社会が変わったのも大きいですよね。以前のように大勢の人を雇って、大量生産、サービス供給をする時代でもなくなりましたからね。今もその名残は残っているものの、大学を出て、官公庁やメガバンク、保険会社、証券会社、商事会社、流通業、メーカー、マスメディア・・・などなどへこぞって就職する時代でもありません。
  もちろん、いまなお、そういうスタイルが主流だし、正社員になって安定を求める人が殺到して、競争率は高止まりのままなのですが、果たして、そうして社会に出てこれからの時代幸せなのかどうか? 
  公務員の高い給与に対する目線は厳しくなる一方だし、金融機関は皆さんご存知の通り、国債を売買したり、手堅い住宅ローンや、せこく手数料収入を得るぐらいのしょぼいビジネスしかできません。商社はちょっと面白いですが、自分のやりたいことが組織の中でできるのかどうか? 流通も将来性はありますね。ただ、給与水準は決して高くないですし、メーカーに関しては、パナソニック、東芝は10年後素材しているでしょうか? 今は横綱のトヨタ自動車にしてもしかり。マスメディアほか国内ビジネスが中心の業界は安定はしていても、発展性は感じられませんね。
  何より、若者自身が運よく、あるいは実力で正社員の座を射止めたとしても、すぐにやめてしまうということです。就職戦線で勝つ=自分に合った仕事ができるという構図は、当たり前のことですが成立せず、そのことに早く気付かないと不幸な結果になることもあります。オーバー30の私たちの世代は身に染みて感じています。
  だから、これからの時代、自らの才能、資質、フィーリング、運、めぐり合い、本当にやりたいこと、情熱を傾けられることなどなど、それぞれにフィットする仕事、ライフワークを見つけることが大切です。そういう状況が定着すれば、日本は個々人が自分自身を表現し、能力を発揮することできる、なかなか面白い国になるのではないでしょうか。いかに金を稼ぐかが尺度でしかない、欧米、中国、韓国なんかとは一線を画すことになるでしょう。
  これからの時代は、他人がどう思うかよりも、自分自身に対して正直であり、何がしたいのか、何ができるのか、どういうことを形にしたいのかを追求するのが当たり前になるでしょうね。
  あるテレビ番組で高級神戸牛とオージービーフを食べ比べ、どちらが神戸牛かを当てる企画をやっていましたが、ほとんどの人はオージービーフを選んでいました。本当に神戸牛はおいしいのでしょうか?
  私も以前、神戸で高級ステーキ店に入り、神戸牛のフルコースを食べたことがありますが、正直、おいしいとは思えませんでした。脂身が多く、脂の味ばかりがして、肉本来の旨みが感じられなかったんですよね。だから、肉らしい味がするオージービーフの方がおいしいというのは理解できる気がします。
  世間ではもちろん神戸牛の方が価格が高いし、ありがたがられるのですが、本当に価値のあるものなのか? 疑ってみる必要があります。オージービーフがおいしいと感じる方が正しいのかもしれないのです。
  正月に家族が集まった時、私の3歳の姪は、お節料理が口に合わず、祖父(私の父)から叱られていましたが、それだって同じですよね。子供の感性の方が正直で、正しいかもしれない。お節料理をありがたがるのは、世間ずれした大人の感性でしかありません。本当においしいのかどうかは分かりません。
  もちろん、お節料理をつくるためにいろいろな人が手をかけており、心がこもっているには違いないし、日本の伝統を感じることができる数少なくなった機会でもあるのですが、それでも、善意や歴史、伝統だけでは窮屈すぎる面もあり、楽しんだり、気軽に味わえる要素も欲しいものです。せっかくの正月なのですから。人を束縛し過ぎる伝統がいつまで続くかも疑問です。
  昔と違って、知恵を出し合えば楽しく生きられる時代をつくることはできるのですから、古臭い型にはまらず、自由な感性、感覚をもっともっと発揮すればいいと思います。
  ただ、中には際立ったものを持ち合わせていなかったり、人から言われたとおりにやる方が得意という人もいます。そういう人は、伝統的なやり方、スタイルが合っているでしょうね。一定の割合でいるはずです。
  また、すべての人が個性的すぎるというのもあり得ないと思います。平凡なもの、定番のスタイルがあってこそ、個性が目立つわけで、個性、個性と言われると逆に、多くの人と同じような行動を求めるという反動も起きることでしょう。それもまた人間の性質です。
  ゆとり教育の弊害がいわれますが、礼儀であるとかしつけ、読解力、会話力、文章力、計算力など最低限の能力を身に付けるひつようもあるでしょうね。能力がある人は型破りでもいいですが、そうでない人は、せめて読み書きそろばん、礼節ぐらいはしっかりしていないと今も昔もこれからも暮らしていけません。
  とはいえ、グローバリゼーションが進み、いろんな意味で世界は均質化が進む一方で、さらに豊かさを目指すには個々人の豊かな才能を発揮させ、いろんな面に、今までにはない発想や知恵を行き届かせることが必要なります。そのためにはやはり個性、感性、才能を伸ばす環境が必要ですね。