1年後

  昨年3月11日の東日本大震災から1年。地震と津波の威力に完膚なきまでに圧倒され、東京電力福島第1原発事故が起き、一時は、100キロ以上離れた東京にいても死を覚悟しましたが、何とか無事に生き延びられました。震災で亡くなられたり、負傷されたり、親族、友人、知人を亡くされたり、財産、職を失ったりと、被災地の方の心の傷は今なお深いでしょうし、安全地帯にいる身では想像もできませんが、少しでも笑顔を取り戻せるようになればと願います。
  あの震災をきっかけに何が変わったかを考えると、一般の人の防災に対する意識が高まったことや、自分の身は自分で守るという考え方が強くなった以外は、何も学ばなかったし、何も変わらなかったと言っていいと思います。
  政治が危機に対して無力で、何の役にも立たなかったことで、不安感を増幅させられたし、今考えても腹立たしい限りです。結局、政治家も官僚も未曾有の災害に対して右往左往するだけで、対策や方針の決定を米国に委ねる形になったことはかえすがえす痛恨でしたね。
  日本が国家として統治能力を失ってしまったことは、本当に背筋が凍る、ぞっとする出来事でした。結局、「トモダチ」というきれいな言葉に覆い隠され、米国の日本支配、搾取を強める結果になってしまいました。政治家や官僚はこのことに対してどう感じているのでしょうかね。何の痛痒も感じないほど、感覚がまひしてしまい、独立の気概など口にするのもやぼったいくらいになってしまっているのではないかと思います。
  近頃は往事の切れが失われ、“老害”も指摘される、石原慎太郎東京都知事ですが、震災の時の対応は迅速でしたね。都営地下鉄やバスが3月11日当日にいち早く復旧したのは、印象的でした。JRや私鉄が復旧に手間取り、その後も計画停電で計画通りに運転できないなど、もたついたのとは対照的でした。
  原発事故後、初めて東京にまとまった雨が降り、水道水の放射性物質の濃度が上がったときの対応も、今考えると的確でしたね。半減期の短いヨウ素が多く含まれていて、汚染が一過性であることを把握し、冷静に行動するよう求める一方、乳幼児を持つ家庭にはペットボトル水が配布されました。
  スーパーの棚から米、インスタント麺、牛乳、卵、飲料水が一斉に姿を消し、「食料難」となり、5月の連休明けまで影響が出ましたが、一部に不自由は残りつつも日常生活は維持されたことは不幸中の幸いですね。
  ただ、東京はたかだか震度5の揺れにすぎず、東日本のサプライチェーンや原発事故に伴う電力不足があったにせよ、あそこまで混乱し、大都市の脆弱さが露呈しました。阪神大震災のような都市直下型の地震が起きれば、もっとひどいパニックになることでしょう。防災体制の見直しが行われつつあるとはいっても、災害は常に私たちの想定を上回る最悪の事態を引き起こします。
  「トモダチ」とか「絆」とかきれいごとに目くらましをされますが、あんなものは、米国の日本支配(資産搾取)の巧妙なトリックと、マスコミの商売道具にすぎないし、冷徹に現実を直視し、有事の際に自分で何ができるのかということをもう一度、しっかり見直すべきでしょう。
  震災以後、米国は3度日本に為替介入をさせて10兆円余りを搾取するとともに、長期にわたる円高(ウォン安)状態を放置。さらには米軍普天間飛行場移設では、イラクやアフガニスタンの駐留縮小であぶれた海兵隊員の行き場を確保する目的や、カネをせしめるために、ヤクザのように執拗に不当な要求を突きつけるという、ふてぶてしさです。それに対して、日本政府はなすすべもなく要求をのみ込むのみでした。
  震災で日本人が立派な行動をしたかというと疑問点は多々あります。被災地の避難所では、いい歳した大人が、子どもの食料や衣服、毛布を略奪するということが横行したと聞くし、火事場泥棒やわいせつ事件などは当たり前に起こっていたようです。東京では被災地で飲料水が不足していることをよそに、スーパーでペットボトルの争奪戦が起きました。
  マスコミが現実を見ずに美談ばかりを仕立てただけのことで、大本営発表に終始したテレビ、新聞の罪は大きいでしょうね。なんだかんだ言っても、いざとなったらみんな、自分を守ることに汲々とし、周りのことなどお構いなしなのです。これは仕方のないことです。日本人だとかなんだとかは関係がない、せいぜい中国人よりえげつないかそうでないかというレベルにすぎません。東京直下で震災が起きたら、もっと醜いことになっているでしょうね。
  震災後、インテリぶった人が偉そうに文明論とか展開しますが、震災前後で何か変わったでしょうか? 人間の生活は何も変わるはずがありません。唯一、原発事故にビビって、萎縮してしまい、全国の原発が停止し、生産活動の縮小を余儀なくされたことでしょうか。本当にくだらないし、ばかばかしいことです。
  日本国内だけで右往左往しただけの話で、文明というなら、世界を変えるくらいの衝撃がほしいです。反原発派の勢いがちょっと増し、原発計画が遅れたぐらいの話で、あとは、自動車の部品生産が滞り、生産が減ったぐらいのこと。震災が世界に与えた影響は皆無と言っていいでしょう。それでも文明がどうのこうの強弁するのでしょうか。世界中のライフスタイルが一変するくらいでないと、文明云々を論じるなどおこがましい限りであり、日本人のスケールの小ささがうかがえます。
  震災を乗り越え、利用して、しぶとく生き延びるぐらいのしたたかさが必要です。だから、底値で買いたたいてボロもうけするぐらいの気概がないと(笑)。原発だってこれを教訓に、「絶対に壊れない」(あり得ないのですが)原発を世界に売り込むぐらいのたくましさが必要です。
  新聞、テレビは本気できれいごとを並べ立てているんでしょうかね? もちろん謙虚さは必要ですが、商売と割り切る部分もないと、日本は生き残れません。放射性物質の除染をめぐるナイーブな議論を見ていると、不安になってしまいます。利権の恩恵にあずかる土建屋さんなんかは、しっかり、ほくそ笑んでいることを期待していますがね。
  人生60年として、大震災を経験するのは、3~4回でしょうか? 成人した人なら少なくともあと1~2回は遭遇することになるでしょうかね。人間は馬鹿な動物で、とりわけ日本人は過去のことをすぐ忘れるし、未来についても想像力が働かないのでたちが悪いです。
  有事に必要以上にパニックにならないために、最善の策はきれいごとを捨てる去ることですかね。天変地異が起きても、生き延びてやろうと考えていれば、普段からの気構え、準備がほかの人とは違うはずです。また、日本の国全体でも、災害を防いで日常生活を守るというよりも、「災害を利用してやろう」的な発想もほしいですね。
  禍を転じて福となすくらいの考えが必要です。