私がトレードを始めたのは、ネット証券が出始めたころ、書店で立ち読みをしていたら、株を短期売買をして、わずかな値ざやを取ることで、月20万円ほど稼いでいるという方の本を見つけたのがきっかけです。その本は買わなかったので、書名や著者名は分かりませんが、今でも売っているならば、記念に買いたいですね。
まさに短期売買のパイオニアみたいな人で、売買手数料なんかもかなり高い時代だったので、いくら相場のボラティリティーはあっても、短期売買で稼ぐなんていう発想はすごいし、ましてそれを実行して、利益を上げたというのは、画期的ですね。米国やなんかではかなり早い段階で行われていたとは思いますが。
その後、相次いでネット証券ができて、大手、中小なんかもネット取引に力を入れるようになり、売買手数料の値下げ競争なんかもあって、個人投資家にとっては、参加しやすい条件が整いました。
リーマン・ショックで相場が急落したり、株式市場に流入する資金が細って、ボラティリティーが低下したりして、簡単に株取引はできても、相場自体が食えない状況になっていて、個人投資家だけでなく、大手金融機関のトレーダーでさえ手出ししづらい状況になってしまいました。
いまでも勢いのよい株はありますから、そこを狙ってデイトレードする人はいるんでしょうけど、デイトレがブームになった2005年、2006年ごろと比べると、活力は著しく衰えましたね。今、デイトレードや短期売買で本格的に稼いでいる人はそんなにはいないはずです。
短期売買をすることに対して、「楽して巨額の金儲けをしてけしからん」みたいな声もありましたけど、誰でもデイトレードで稼げるわけではないし、稼ぎやすい相場地合いも長続きせず、いい時代なんてほんの一瞬しかありませんでした。
みんなが短期売買に走り出すと、値動きが不安定化して、取引しにくくなるということもあり、狙える利幅も小さくなります。これもまた、市場原理ですよね。参入者が増えるとどうしても、限られたパイをめぐって競争が激化するし、利益も小さくなります。
短期売買が難しくなったからといって、じゃあ、長期的な視点で株やら先物やら、その他の金融商品を長期保有できるかというと、そうでもないんですよね。日経平均にせよ、ドル・円にせよ、堅調になったかと思えば、長続きせず、一気に奈落の底に落とされたりと、相場つきが短期間で変わってしまいます。
それになにより、日経平均4桁なんて、ついこの間までは、信じられないと思われていたのが、すっかりこの水準が定着してしまい、日経平均が1万円以下なら買いだとは言えなくなってしまいました。しかもじりじりと水準を切り下げるので、長期保有なんて危なっかしくて仕方ありません。
欧米はもはやマイナス成長モードに入りつつあり、金融ばくちと不動産ころがしの後始末もついていないので、日本はそのとばっちりをもろに食らい、先行きの見通しは明るくありません。というよりは、欧米の破綻、没落は不可避なので、いかに嵐を乗り切るかという視点しか持てず、長い目で投資しようという気にはなれません。
と言って、ショートで長期保有しようちしても、しつこく下げ止まり、しかもダウなんかは、金融緩和で資金を呼び込んだり、あれこれインチキな不正価格操作をすることで、値を吊り上げるので、安心してショートポジションをとることもできません。
長期投資を封じ込められたら、やはり短期売買に走らざるを得ないわけで、短期売買こそが、個人投資家が財産を増やしたり、保全したりする、究極の知恵、手段になってしまうというわけです。
また、今までと違って時代の変化が早く、企業の経営環境も、1年あるいは半年という短いサイクルで激変するので、安定して成長するなんてことはとても望めなくなりました。そうなると、それに合わせた投資行動が必要で、やはり短期的な視点にどうしてもならざるを得ません。
私の知っている人で、投資信託を800万円分購入し、今では300万円にまで目減りし、今なお保有しているという人がいて、まだ、日経平均が1万円を回復するみたいな淡い期待を抱いているみたいなのですが、あきらめた方がいいでしょうね。
金融商品を何年も放置して、儲けようなんていう考えの方が甘いし、古臭くて通用しない発想です。短期売買でさえ、一生懸命研究したからといって、報われるかというと、そうもいかない時代になってしまいました。善悪の問題ではなく、その場の状況に合わせて、的確な投資手法をとる。個人が生き残っていくには、それしかありませんね。
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政変はあるか?
野田佳彦首相は、消費税率引き上げに「政治生命を懸ける」のだそうですが、見ていて哀れで仕方ありません。私が言うのも僭越なのですが、野田さんは自民党が圧倒的に強かった時代なら、陣笠議員(衆院採決の数合わせ要員)レベルで、小物です。
そんな人が首相の座にまで上り詰めるのですから、ある意味、サクセスストーリーだし、アメリカン・ドリームならぬジャパニーズ・ドリームですね。ニートや引きこもりの人たちを奮い立たせるような立志伝が書けるかもしれません。
冗談はさておき、米国の言いなりで、米国債を買い支える資金がさらに必要になるため、消費税率を引き上げざるを得ないというのが実情でしょう。本気になって特別会計とかを「仕分け」すれば、埋蔵金がザクザクと出てくるだろうし(あるいはもし埋蔵金が出ないということになればすでに米国債を買うために資金が流用されている)、為替介入をやめたり、米国債を売却すれば「老人天国」が実現するくらい、福祉にお金を回せることでしょう。
器の小さい人物が一国のリーダーになることほど、危険で国民にとって悲劇なことはありませんね。米国に脅されて、金を上納するために、鼻くそほどもない政治生命を懸けるというのですから、一般国民はどうすればいいのでしょうか? ヤクザに脅された、冴えないチンピラが「腎臓売ります」とか「指詰めてけじめつけます」と言っているようなもので、情けなくて仕方がありません。
野田という人にはプライドのかけらもないのか? それとも首相になってしまうとそういうことを考える余裕が与えられず、洗脳されてしまうのか? 確かに野田さんをけなすしたり、茶化したりすることは簡単なのですが、どうやってしっかりしたリーダーを選ぶのか、私たちも真剣に考えなければなりません。
あえて弁護するならば、日本のリーダーにとって厳しい時代になっています。長らく政権についてきた自民党は、右肩上がりの時代で、経済的にゆとりがのだったので、米国に難問を突き付けられても、何とかかわすことができました。何より米国自体にも余裕があったので、要求もそれほど苛烈ではありませんでした。
このところ、米国はなりふり構わぬ要求をするし、米国を貿易をしても利幅が少なくなりつつあり、しかも米国債を買わされるので、米国依存だった日本は、困窮する一方です。こんなときにリーダーに就いて、かじ取りをするのは容易ではありません。
前回の衆院選は2009年8月で、今選挙をやっても民主党に勝ち目はありませんから、4年間の任期いっぱいまっとうするのかと思っていましたが、もしかすると、野田政権では堪えられずに今年中に衆院選が行われるかもしれませんね。このところなんとなく政局がざわざわとしてきました。
ここへ来て、解散風、選挙風が吹き始めた背景には、昨年の大阪ダブル選に象徴されるように、愛知、大阪を中心とする、ローカルパーティーの台頭ですね。
一般の国民はB層がどうのとか、なんだかんだ言っても、本質的な変化を求めています。それは2005年の郵政解散選挙、2009年の政権交代にいたった選挙と一貫しています。「このままではだめだ」という危機感はあるのだと思います。
ただ、選挙でできた政権が行ったことは、有権者の期待に応えるものではありませんでした。昨年の大阪の選挙では、既成政治のシステムや、政党に対して、「ノー」を突き付けたということです。これは大阪地区限定の話ではなく、全国に広がる可能性を秘めています。
地方から国の変化を求める動きが出ることは、非常にいいことですね。米国が、財務省を中心とする官僚が、北海道から沖縄まで、隅々まで国民を支配するなんて現実的ではないですし、地域のことは地域で考える。それがあるべき姿ではないでしょうか。
橋下徹大阪市長の言説を見ると、竹中平蔵さんを礼賛したり、「あれっ?」と思わされることは少なくないのですが、地方に権限、財源を移譲し、地域のことにもっと、有権者が関心を持ち、意見を反映させる仕組みをつくろうという姿勢は正しいと思います。今は黒でも白でもネズミを捕る猫はいい猫であり、基本的には、大阪維新の会の動きを私は支持します。これは以前から表明している通りです。
公明党の動きに要注目ですね。選挙の出口調査なんかをみると、大阪ダブル選では、民主、自民に相乗りしたような感じでしたが、大阪維新に肩入れする姿勢を少しずつ強めています。既存政党の中では一番、支持基盤が安定し、情報収集もすごいですから、地方から国を改革しようという動きが強まるととらえているのではないでしょうか。
かつて自民党と連立政権を組んでいたので、ここで大阪維新ほか、ローカルパーティーと連携すれば、批判を浴びるでしょうが、時代の流れを読んだり、有権者の意向をくみつつ、最大限自らの主張を取り入れられる方向に動くというのは正しいと思いますけどね。単独では政権を取れないのですから。いずれにせよ政局に敏感な公明党が動き出したということは、近々大きな動きになるのでしょう。
欧米がバブル崩壊で、経済が崩壊し、社会が荒廃する状況にいたって、日本だけでなく、各国の政治の機能不全が明確になってきました。一番の元凶は、米国の世界支配が限界に達していて、そのとばっちりを受けているということにあるのですが、上から力で抑えつける時代というのは変わるのではないでしょうか。
もちろん、常々、このブログで書いている通り、人間社会の秩序を形成するには、力を背景とした序列が必要だとは思いますが、そういう露骨なものに支配されるのは、世界的に嫌悪感が広がりつつあると思います。
そういう意味では、自分たちの生活に密着した、身近な地方から国政を変えていこうよというのは、世界的にも興味深い動きではないでしょうか。
地方分権が実現したとして、さらにその先に何があるのかは分かりません。名古屋市議会などでは、河村たかし市長が率いる「減税日本」が最大会派になりましたが、素人集団にすぎず、批判も高まっています。大阪維新なんかでも、素行不良な議員がいるようです。
ただ、じゃあ既存政党がこのまま従来の延長上で政治を続けるのが果たしていいのか? 中央官庁はますます肥大化し、何のチェックも働かないまま、唯々諾々と為替介入させられたり、米国債を購入させられたりして、国富をどんどん失っていく体制が正しいのか?
民主党は選挙をしても一定の議席を取れると踏んでいるフシがあるし、自民党は民主党の敵失に乗じて、政権を再び握れるみたいな幻想を抱いていますが、果たしてそうか? 大阪市長選で民主、自民に相乗りして、ダメっぷりを見事に発揮した共産党も含め、既存政党はもはや支持されないでしょう。
永田町にいるとその辺の有権者の感覚をりかいできないのでしょうか。本当に頭が悪いですよね。与党も野党も。
今年選挙があるにしても、任期をまっとうするにしても、大きな流れは変わらないでしょう。既存政党に対して「ノー」が突き付けられ、地方から改革を訴える勢力が勝利するでしょう。
ただ、自民から民主に政権が移った時もそうだったように、実際には政権が代わっても、いろいろと抵抗があり、問題、トラブルも出てくるでしょうから、そんなにことはスムーズに運ばないでしょう。むしろ、それが当たり前として、困難を克服し、乗り越え、新しい形をつくっていく努力をしていけばいいのではないでしょうか。日本型の新しい政治のモデル、世界に誇りを持って示せる新潮流をつくっていく気概が欲しいものです。
そんな人が首相の座にまで上り詰めるのですから、ある意味、サクセスストーリーだし、アメリカン・ドリームならぬジャパニーズ・ドリームですね。ニートや引きこもりの人たちを奮い立たせるような立志伝が書けるかもしれません。
冗談はさておき、米国の言いなりで、米国債を買い支える資金がさらに必要になるため、消費税率を引き上げざるを得ないというのが実情でしょう。本気になって特別会計とかを「仕分け」すれば、埋蔵金がザクザクと出てくるだろうし(あるいはもし埋蔵金が出ないということになればすでに米国債を買うために資金が流用されている)、為替介入をやめたり、米国債を売却すれば「老人天国」が実現するくらい、福祉にお金を回せることでしょう。
器の小さい人物が一国のリーダーになることほど、危険で国民にとって悲劇なことはありませんね。米国に脅されて、金を上納するために、鼻くそほどもない政治生命を懸けるというのですから、一般国民はどうすればいいのでしょうか? ヤクザに脅された、冴えないチンピラが「腎臓売ります」とか「指詰めてけじめつけます」と言っているようなもので、情けなくて仕方がありません。
野田という人にはプライドのかけらもないのか? それとも首相になってしまうとそういうことを考える余裕が与えられず、洗脳されてしまうのか? 確かに野田さんをけなすしたり、茶化したりすることは簡単なのですが、どうやってしっかりしたリーダーを選ぶのか、私たちも真剣に考えなければなりません。
あえて弁護するならば、日本のリーダーにとって厳しい時代になっています。長らく政権についてきた自民党は、右肩上がりの時代で、経済的にゆとりがのだったので、米国に難問を突き付けられても、何とかかわすことができました。何より米国自体にも余裕があったので、要求もそれほど苛烈ではありませんでした。
このところ、米国はなりふり構わぬ要求をするし、米国を貿易をしても利幅が少なくなりつつあり、しかも米国債を買わされるので、米国依存だった日本は、困窮する一方です。こんなときにリーダーに就いて、かじ取りをするのは容易ではありません。
前回の衆院選は2009年8月で、今選挙をやっても民主党に勝ち目はありませんから、4年間の任期いっぱいまっとうするのかと思っていましたが、もしかすると、野田政権では堪えられずに今年中に衆院選が行われるかもしれませんね。このところなんとなく政局がざわざわとしてきました。
ここへ来て、解散風、選挙風が吹き始めた背景には、昨年の大阪ダブル選に象徴されるように、愛知、大阪を中心とする、ローカルパーティーの台頭ですね。
一般の国民はB層がどうのとか、なんだかんだ言っても、本質的な変化を求めています。それは2005年の郵政解散選挙、2009年の政権交代にいたった選挙と一貫しています。「このままではだめだ」という危機感はあるのだと思います。
ただ、選挙でできた政権が行ったことは、有権者の期待に応えるものではありませんでした。昨年の大阪の選挙では、既成政治のシステムや、政党に対して、「ノー」を突き付けたということです。これは大阪地区限定の話ではなく、全国に広がる可能性を秘めています。
地方から国の変化を求める動きが出ることは、非常にいいことですね。米国が、財務省を中心とする官僚が、北海道から沖縄まで、隅々まで国民を支配するなんて現実的ではないですし、地域のことは地域で考える。それがあるべき姿ではないでしょうか。
橋下徹大阪市長の言説を見ると、竹中平蔵さんを礼賛したり、「あれっ?」と思わされることは少なくないのですが、地方に権限、財源を移譲し、地域のことにもっと、有権者が関心を持ち、意見を反映させる仕組みをつくろうという姿勢は正しいと思います。今は黒でも白でもネズミを捕る猫はいい猫であり、基本的には、大阪維新の会の動きを私は支持します。これは以前から表明している通りです。
公明党の動きに要注目ですね。選挙の出口調査なんかをみると、大阪ダブル選では、民主、自民に相乗りしたような感じでしたが、大阪維新に肩入れする姿勢を少しずつ強めています。既存政党の中では一番、支持基盤が安定し、情報収集もすごいですから、地方から国を改革しようという動きが強まるととらえているのではないでしょうか。
かつて自民党と連立政権を組んでいたので、ここで大阪維新ほか、ローカルパーティーと連携すれば、批判を浴びるでしょうが、時代の流れを読んだり、有権者の意向をくみつつ、最大限自らの主張を取り入れられる方向に動くというのは正しいと思いますけどね。単独では政権を取れないのですから。いずれにせよ政局に敏感な公明党が動き出したということは、近々大きな動きになるのでしょう。
欧米がバブル崩壊で、経済が崩壊し、社会が荒廃する状況にいたって、日本だけでなく、各国の政治の機能不全が明確になってきました。一番の元凶は、米国の世界支配が限界に達していて、そのとばっちりを受けているということにあるのですが、上から力で抑えつける時代というのは変わるのではないでしょうか。
もちろん、常々、このブログで書いている通り、人間社会の秩序を形成するには、力を背景とした序列が必要だとは思いますが、そういう露骨なものに支配されるのは、世界的に嫌悪感が広がりつつあると思います。
そういう意味では、自分たちの生活に密着した、身近な地方から国政を変えていこうよというのは、世界的にも興味深い動きではないでしょうか。
地方分権が実現したとして、さらにその先に何があるのかは分かりません。名古屋市議会などでは、河村たかし市長が率いる「減税日本」が最大会派になりましたが、素人集団にすぎず、批判も高まっています。大阪維新なんかでも、素行不良な議員がいるようです。
ただ、じゃあ既存政党がこのまま従来の延長上で政治を続けるのが果たしていいのか? 中央官庁はますます肥大化し、何のチェックも働かないまま、唯々諾々と為替介入させられたり、米国債を購入させられたりして、国富をどんどん失っていく体制が正しいのか?
民主党は選挙をしても一定の議席を取れると踏んでいるフシがあるし、自民党は民主党の敵失に乗じて、政権を再び握れるみたいな幻想を抱いていますが、果たしてそうか? 大阪市長選で民主、自民に相乗りして、ダメっぷりを見事に発揮した共産党も含め、既存政党はもはや支持されないでしょう。
永田町にいるとその辺の有権者の感覚をりかいできないのでしょうか。本当に頭が悪いですよね。与党も野党も。
今年選挙があるにしても、任期をまっとうするにしても、大きな流れは変わらないでしょう。既存政党に対して「ノー」が突き付けられ、地方から改革を訴える勢力が勝利するでしょう。
ただ、自民から民主に政権が移った時もそうだったように、実際には政権が代わっても、いろいろと抵抗があり、問題、トラブルも出てくるでしょうから、そんなにことはスムーズに運ばないでしょう。むしろ、それが当たり前として、困難を克服し、乗り越え、新しい形をつくっていく努力をしていけばいいのではないでしょうか。日本型の新しい政治のモデル、世界に誇りを持って示せる新潮流をつくっていく気概が欲しいものです。
現実を直視せよ
日々、金融市場と付き合う上で、一番大切なのは現実を直視するということです。現実を現実として受け止め、行動しなければなりません。最近は嫌なこと、見たくないことも多いですけどね。でも、それもまだ現実です。きちんと向き合い、乗り越えていかないと、先へ進んでいけません。
私がトレードを始めた頃は、2005年前後だったと思いますが、相場が自由に動いて本当に楽しかった。2003年のりそな国有化で株価が7600円を付けた後、踊り場があって、そこからリーマン・ショック前の2007年にかけて強気、バブルに乗って、18300円まで上昇しました。
2005年前半なんて、買えば必ず上昇する相場でしたからね。「デイトレードで何億円儲けた」とか、にわかに株長者が生まれた時代でもありました。時々、小反落はするんだけれども、ちょっと値が下がったところが買い目で、「押し目買い」というのを体感しましたね。その頃は、まだ、個別株中心で、本格的に先物取引はしていませんでしたが、下げたら買う、上がったら売るという、シンプルなものでした。1日で20%も30%も上がる銘柄もありました。
それで、「ここまで下がったらさすがに買うだろ」「上げ過ぎて怖いな」みたいな、相場感覚を養うのにもうってつけでしたね。個別株なんかは、人気株はとことん上がるので、群集心理というか、投資行動についても学びました。
大勢の人が一つの方向に向かっていくというのは、勢いがあって、しかも投資をする上では分かりやすいんですが、怖い事でもあるんですよね。底値でしつこく売られたり、高値で未練がましく買ったりして、感覚が狂わされることもあるのですが、どこかでターニングポイントはある。そこがチャンスなんですよね。
マーケットで価格が決まるシステムの良さは、良いもの、人気のあるものは買われる。ダメなものを売られるということで、物事がきちんと選別されるというところにあります。国際情勢をきちんと分析し、マクロ経済に対する理解があり、個別企業の業績、さらにテクニカル分析ができていれば、値が下がったところでロング、上がったところで利食いあるいは、ショートで、普通に設けることができるのです。
ところが、残念ながら、リーマン以降、相場に政府や中央銀行が必要以上に介入するようになったため、マーケットが持っていた本来の機能や利点が失われてしまいました。
本来、ダメなものが選別される局面であるはずなのですが、値を下げることが許されず、かといって下値が堅いから買われるかというと、本来買われるべきものではないので、すっきりとは価格上昇しません。それで値段の行き場がなくなってしまい、訳の分からないレンジ相場になってしまいます。
限られた値幅の中ではあるのですが、時々、意図的に値段を上下させ、一部のインサイダーだけが利益(と言ってもささやかなんでしょうけど)上げるという状態がずっと続いています。
こうなると、本当にお手上げなんですが、残念ながら、これも現実です。ただ、これもいつまで続くんでしょうかね。続けることはできるのでしょうか? 答えは見えづらいですが、少しずつ、日々の細かい動き(現実)をたんねんにフォローしながら読み解いていく以外にありません。
基本的には、欧米はもう終わってしまった。勤勉さを失い、競争で勝つために努力するという正道から外れ、金融ばくちと不動産ころがしに血道をあげた結果、集団で断崖絶壁から奈落の底へ落ちる事態に至ったのです。この期に及んで、マーケットに政策介入し、無理やり値を維持することによって、かろうじて命をつないでいるにすぎません。
この辺は、逆に「もっと現実を見てくれ」と、言いたいですね。ダメなものはダメ。その単純な原則が通用しないなら、マーケットは機能しません。その原則があるからこそ、私たちがマーケットに魅せられるわけでもあります。
もっとも怖いのが、無理を通して、マーケットを殺してしまうことですね。下手をすれば“連中”はそれをやりかねません。そうなればそうなったで現実を受け入れなければならないわけですが、私たちにとっては最悪のものであることは言うまでもありません。
私がトレードを始めた頃は、2005年前後だったと思いますが、相場が自由に動いて本当に楽しかった。2003年のりそな国有化で株価が7600円を付けた後、踊り場があって、そこからリーマン・ショック前の2007年にかけて強気、バブルに乗って、18300円まで上昇しました。
2005年前半なんて、買えば必ず上昇する相場でしたからね。「デイトレードで何億円儲けた」とか、にわかに株長者が生まれた時代でもありました。時々、小反落はするんだけれども、ちょっと値が下がったところが買い目で、「押し目買い」というのを体感しましたね。その頃は、まだ、個別株中心で、本格的に先物取引はしていませんでしたが、下げたら買う、上がったら売るという、シンプルなものでした。1日で20%も30%も上がる銘柄もありました。
それで、「ここまで下がったらさすがに買うだろ」「上げ過ぎて怖いな」みたいな、相場感覚を養うのにもうってつけでしたね。個別株なんかは、人気株はとことん上がるので、群集心理というか、投資行動についても学びました。
大勢の人が一つの方向に向かっていくというのは、勢いがあって、しかも投資をする上では分かりやすいんですが、怖い事でもあるんですよね。底値でしつこく売られたり、高値で未練がましく買ったりして、感覚が狂わされることもあるのですが、どこかでターニングポイントはある。そこがチャンスなんですよね。
マーケットで価格が決まるシステムの良さは、良いもの、人気のあるものは買われる。ダメなものを売られるということで、物事がきちんと選別されるというところにあります。国際情勢をきちんと分析し、マクロ経済に対する理解があり、個別企業の業績、さらにテクニカル分析ができていれば、値が下がったところでロング、上がったところで利食いあるいは、ショートで、普通に設けることができるのです。
ところが、残念ながら、リーマン以降、相場に政府や中央銀行が必要以上に介入するようになったため、マーケットが持っていた本来の機能や利点が失われてしまいました。
本来、ダメなものが選別される局面であるはずなのですが、値を下げることが許されず、かといって下値が堅いから買われるかというと、本来買われるべきものではないので、すっきりとは価格上昇しません。それで値段の行き場がなくなってしまい、訳の分からないレンジ相場になってしまいます。
限られた値幅の中ではあるのですが、時々、意図的に値段を上下させ、一部のインサイダーだけが利益(と言ってもささやかなんでしょうけど)上げるという状態がずっと続いています。
こうなると、本当にお手上げなんですが、残念ながら、これも現実です。ただ、これもいつまで続くんでしょうかね。続けることはできるのでしょうか? 答えは見えづらいですが、少しずつ、日々の細かい動き(現実)をたんねんにフォローしながら読み解いていく以外にありません。
基本的には、欧米はもう終わってしまった。勤勉さを失い、競争で勝つために努力するという正道から外れ、金融ばくちと不動産ころがしに血道をあげた結果、集団で断崖絶壁から奈落の底へ落ちる事態に至ったのです。この期に及んで、マーケットに政策介入し、無理やり値を維持することによって、かろうじて命をつないでいるにすぎません。
この辺は、逆に「もっと現実を見てくれ」と、言いたいですね。ダメなものはダメ。その単純な原則が通用しないなら、マーケットは機能しません。その原則があるからこそ、私たちがマーケットに魅せられるわけでもあります。
もっとも怖いのが、無理を通して、マーケットを殺してしまうことですね。下手をすれば“連中”はそれをやりかねません。そうなればそうなったで現実を受け入れなければならないわけですが、私たちにとっては最悪のものであることは言うまでもありません。
辛口
このブログを普段、ご覧の方は、ある程度免疫ができていると思いますが(笑)、私は結構、ものを言うときはばっさりと直言するし、必要とあれば、物事を極端に決めつけてかかって論じます。そうしないと、メッセージがきちんと伝わらないですからね。もちろん、そのことによって、ときには激烈な副作用もあることは重々承知です。
ただ、海外でプレゼンテーションとか、研究発表とか、経験したことのある人は分かっていただけると思いますが、日本では辛口、過激と思われるようなとんがった主張も、海外ではごく普通に受け入れられることの方が普通です。もちろんその結論に至った経緯については、きちんと分かりやすく、丁寧に説明する必要はあり、そこはルール、マナーとしてわきまえておく必要があるのですが。
その辺が日本人が本当の意味で、“国際化”できない原因の一つでしょうね。人の目とか空気ばかりを気にし過ぎて、結局、何が言いたいのかわからないということが多々あり、周りの人も厳しい追及とかしないし、きちんと評価、吟味できないのでもやーっとしたまま、なぁなぁの状態で終わってしまいます。私は高校から米国で過ごしたので、教育の違いが大きいでしょうね。言いたいことをどうやって伝えるかということを常に腐心します。
ディベートとか、論文を交わして議論するのは下手である反面、日本は、言葉は通じ合えなくても、以心伝心というか、微妙な空気を読んで、その場の雰囲気にマッチした提案、サービス、物をつくりだすという能力は高いと思います。これは日本人に備わった天性というか、独特な能力ですよね。この辺は、いくら評価してもし足りないでしょう。だから、一概に否定するものでもありません。
私は主張がはっきりする分、人と共同作業をするときなんかは、その辺は、どちらかというと、欧米流のビジネスライクな部分もあるので、周囲の人とあつれきが生じることもありますね。自分の長所でもあるし、短所、弱点であることを痛感することが多々あります。
日本では、はっきり物を言わない人が多いので、結構、めずらしがられて、好意的にみられることが多いですね。自分では友人は少ない方だとばかり思っていたのですが、はっきりものを言うので、どういう人間かわかってもらいやすく、親友とは言わないまでも、それに近い、分かり合える友人は割とおおいですね。そういう友人で、晩御飯をたべる相手は、半月分ぐらいいます。結構、驚かれますけどね。
猿岩石の有吉弘之さんなんかは、辛口キャラで再ブレイクしましたが、世の中、ある程度、毒がないと楽しくないですからね。むしろ逆に毒を欲しがっている部分もあるでしょう。
辛口ばかりで、シニカルな世界もいやですが、寿司にわさび、ラーメンにコショウ、日本そばに七味唐辛子をかけるように、ちょっとしたスパイスがあると、アクセントがつき、さらにおいしさが引き立ちます。
私にとっては幸いというか、まだまだ、日本は全体に、スパイスが効かず、のっぺりした平板な状態なので、もっともっと辛口のスパイスをふりかける余地があります。特に経済や金融市場をめぐる、コメント、言説のたぐいはひどいものがありますね。
これからも、辛口、毒をはきまくっていきたいと思います。ついてこられる人だけついてきてください。
ただ、海外でプレゼンテーションとか、研究発表とか、経験したことのある人は分かっていただけると思いますが、日本では辛口、過激と思われるようなとんがった主張も、海外ではごく普通に受け入れられることの方が普通です。もちろんその結論に至った経緯については、きちんと分かりやすく、丁寧に説明する必要はあり、そこはルール、マナーとしてわきまえておく必要があるのですが。
その辺が日本人が本当の意味で、“国際化”できない原因の一つでしょうね。人の目とか空気ばかりを気にし過ぎて、結局、何が言いたいのかわからないということが多々あり、周りの人も厳しい追及とかしないし、きちんと評価、吟味できないのでもやーっとしたまま、なぁなぁの状態で終わってしまいます。私は高校から米国で過ごしたので、教育の違いが大きいでしょうね。言いたいことをどうやって伝えるかということを常に腐心します。
ディベートとか、論文を交わして議論するのは下手である反面、日本は、言葉は通じ合えなくても、以心伝心というか、微妙な空気を読んで、その場の雰囲気にマッチした提案、サービス、物をつくりだすという能力は高いと思います。これは日本人に備わった天性というか、独特な能力ですよね。この辺は、いくら評価してもし足りないでしょう。だから、一概に否定するものでもありません。
私は主張がはっきりする分、人と共同作業をするときなんかは、その辺は、どちらかというと、欧米流のビジネスライクな部分もあるので、周囲の人とあつれきが生じることもありますね。自分の長所でもあるし、短所、弱点であることを痛感することが多々あります。
日本では、はっきり物を言わない人が多いので、結構、めずらしがられて、好意的にみられることが多いですね。自分では友人は少ない方だとばかり思っていたのですが、はっきりものを言うので、どういう人間かわかってもらいやすく、親友とは言わないまでも、それに近い、分かり合える友人は割とおおいですね。そういう友人で、晩御飯をたべる相手は、半月分ぐらいいます。結構、驚かれますけどね。
猿岩石の有吉弘之さんなんかは、辛口キャラで再ブレイクしましたが、世の中、ある程度、毒がないと楽しくないですからね。むしろ逆に毒を欲しがっている部分もあるでしょう。
辛口ばかりで、シニカルな世界もいやですが、寿司にわさび、ラーメンにコショウ、日本そばに七味唐辛子をかけるように、ちょっとしたスパイスがあると、アクセントがつき、さらにおいしさが引き立ちます。
私にとっては幸いというか、まだまだ、日本は全体に、スパイスが効かず、のっぺりした平板な状態なので、もっともっと辛口のスパイスをふりかける余地があります。特に経済や金融市場をめぐる、コメント、言説のたぐいはひどいものがありますね。
これからも、辛口、毒をはきまくっていきたいと思います。ついてこられる人だけついてきてください。
空気
日本人は周りの空気(ニューマ)によって行動が支配されている、というのが、有名な山本七平さん(故人)の名著「空気の研究」の論旨です。今さら取り立てて言う必要はないと思いますが、「KY」なんて言葉に象徴されるように日本人は本当に「空気」ばかり読んでいます。
空気を読む国民というのは、世界的にもめずらしい存在でしょうね。世界中を歩き回れば、日本人と同じような人たちに出会えるかもしれませんが、世界の主要国でこれほど空気を気にする国民は希有の存在です。
なんだかんだ言っても、日本人は個人プレーより、集団プレーの時に能力を発揮しますから、チームの和を保のに空気を読む能力は大切なんだと思います。空気を読めるからこそ、見える物があり、それが優れた製品、サービスを生み出す原動力になっている面は大きいでしょう。
ただ、怖いのは、空気を読むことばかりに気が向いてしまい、危機を察知することがおろそかになってしまうことです。誰か一人が「危ない」「やばい」と気付いても、全体の空気がゆるんでいれば、たとえ警鐘を鳴らしても「何言ってるのあの人」みたいな白い目で見られることが多いです。
それでいて、いざ不意を突かれると一気に警戒心一色になってしまい、あつものに懲りてなますを吹くというか、異常に神経質になってしまいます。
原発をめぐる状況がまさにそうですよね。東京電力福島第1原発事故前までは、「原発が危ない」と言っても、だれも相手にしなかったし、そう主張する人たちはちょっと頭がおかしいのではないかと思われていました。私自身もそう思っていましたし。
ところが、事故が起きると一気に世論は原発が危険だという流れに傾いてしまい、「だから私はあの時原発は危ないんだと言ったのに」みたいな被害者意識だけを丸出しにした、無責任な意見がまかり通るようになってしまいました。自分たちが原発で得たエネルギーでどれだけ恩恵を受けたのかはまったく顧みることなしに。
これは日本人の持つ本当にいやらしく、醜い一面ですよね。そして最大の弱点でもあります。大きな力が働くたびに、萎縮してしまいその力になびいてしまい、客観的に物事を考えられなくなるという。
日本が67年前に敗戦したときに、なぜ、国が崩壊の寸前まで至ってしまう事態に陥ったのか、日本人自らが反省し、総括しなかったのがやはり大きいでしょうね。
どんどん日本人の考える力が衰えているので、何も考えずに空気に従って、あるいは現状に疑問を持たずに、意思を形成するのが当たり前になりつつあります。そういう人たちを出し抜けば、いろいろとチャンスは多いのですが、日本全体としては怖いことですね。
私たちは日々、マーケットと対峙していますが、マーケットとうまく付き合う方法は、「空気を読む」ことです。欧米は金融恐慌への道まっしぐらという感じですが、暴落せずに下げ渋り、しかも小反発するような局面では、利益を得たり、ロスを防ぐには、中長期では間違っていることではあっても、流れに従って、買うしかないのです。すくなくとも売るにしても、伸びきって買い疲れるまで待つしかありません。
大局観でものを考えつつも、目先の空気を読まなければならないという、複雑な作業を要求されます。動きが一致していればいいのですが、ちぐはぐなことが多いのでストレスがたまります。
いつも指摘しているとおり、諸悪の根源は米国にあるのですが、従属国日本の力ではあらがえません。大きな力、強いものの前では、あからさまに思い切った行動や手を打てないというのも、残念ながら事実です。だからこそ、空気を読もうとする力が余計に強くなったということも言えることができます。
どんなに「米国がやばい」「国家破綻するよ」と言い続けても、広がらないのは致し方ないところもあるのです。長年、強い国に従属させられ、しかも平和で安定していたがために何の疑いを抱くこともなくなってしまった。政治家、官僚はおろか、本来、臆病で敏感で慎重であるはずの経済人や金融マンでさえも異変に気付かないのですからね。
空気の壁を破るのは難しいのです。まずは理解できる人だけ理解して、とにかく生き残ることだけを考えましょう。明らかに有事なわけですから、空気を読んでいては、激動には対処できないのです。空気を超えた先にはいろいろとチャンスもあるでしょうから。
空気を読む国民というのは、世界的にもめずらしい存在でしょうね。世界中を歩き回れば、日本人と同じような人たちに出会えるかもしれませんが、世界の主要国でこれほど空気を気にする国民は希有の存在です。
なんだかんだ言っても、日本人は個人プレーより、集団プレーの時に能力を発揮しますから、チームの和を保のに空気を読む能力は大切なんだと思います。空気を読めるからこそ、見える物があり、それが優れた製品、サービスを生み出す原動力になっている面は大きいでしょう。
ただ、怖いのは、空気を読むことばかりに気が向いてしまい、危機を察知することがおろそかになってしまうことです。誰か一人が「危ない」「やばい」と気付いても、全体の空気がゆるんでいれば、たとえ警鐘を鳴らしても「何言ってるのあの人」みたいな白い目で見られることが多いです。
それでいて、いざ不意を突かれると一気に警戒心一色になってしまい、あつものに懲りてなますを吹くというか、異常に神経質になってしまいます。
原発をめぐる状況がまさにそうですよね。東京電力福島第1原発事故前までは、「原発が危ない」と言っても、だれも相手にしなかったし、そう主張する人たちはちょっと頭がおかしいのではないかと思われていました。私自身もそう思っていましたし。
ところが、事故が起きると一気に世論は原発が危険だという流れに傾いてしまい、「だから私はあの時原発は危ないんだと言ったのに」みたいな被害者意識だけを丸出しにした、無責任な意見がまかり通るようになってしまいました。自分たちが原発で得たエネルギーでどれだけ恩恵を受けたのかはまったく顧みることなしに。
これは日本人の持つ本当にいやらしく、醜い一面ですよね。そして最大の弱点でもあります。大きな力が働くたびに、萎縮してしまいその力になびいてしまい、客観的に物事を考えられなくなるという。
日本が67年前に敗戦したときに、なぜ、国が崩壊の寸前まで至ってしまう事態に陥ったのか、日本人自らが反省し、総括しなかったのがやはり大きいでしょうね。
どんどん日本人の考える力が衰えているので、何も考えずに空気に従って、あるいは現状に疑問を持たずに、意思を形成するのが当たり前になりつつあります。そういう人たちを出し抜けば、いろいろとチャンスは多いのですが、日本全体としては怖いことですね。
私たちは日々、マーケットと対峙していますが、マーケットとうまく付き合う方法は、「空気を読む」ことです。欧米は金融恐慌への道まっしぐらという感じですが、暴落せずに下げ渋り、しかも小反発するような局面では、利益を得たり、ロスを防ぐには、中長期では間違っていることではあっても、流れに従って、買うしかないのです。すくなくとも売るにしても、伸びきって買い疲れるまで待つしかありません。
大局観でものを考えつつも、目先の空気を読まなければならないという、複雑な作業を要求されます。動きが一致していればいいのですが、ちぐはぐなことが多いのでストレスがたまります。
いつも指摘しているとおり、諸悪の根源は米国にあるのですが、従属国日本の力ではあらがえません。大きな力、強いものの前では、あからさまに思い切った行動や手を打てないというのも、残念ながら事実です。だからこそ、空気を読もうとする力が余計に強くなったということも言えることができます。
どんなに「米国がやばい」「国家破綻するよ」と言い続けても、広がらないのは致し方ないところもあるのです。長年、強い国に従属させられ、しかも平和で安定していたがために何の疑いを抱くこともなくなってしまった。政治家、官僚はおろか、本来、臆病で敏感で慎重であるはずの経済人や金融マンでさえも異変に気付かないのですからね。
空気の壁を破るのは難しいのです。まずは理解できる人だけ理解して、とにかく生き残ることだけを考えましょう。明らかに有事なわけですから、空気を読んでいては、激動には対処できないのです。空気を超えた先にはいろいろとチャンスもあるでしょうから。