今年のゴールデンウイークは曜日配列の関係で、最大で9連休と、ちょっとした長期休暇の人もいるようですが、東日本大震災直後で自粛ムードだった昨年と比べると、華やかなムードですね。振り返ると昨年のゴールドウイークは何をしていたのか、全然記憶がありません。
ただ、傾向としては、近場で過ごせて、かつお金はあまり使わずに安上がりで済ませてしまおうという、この十数年来の流れは変わっていないようです。
東京スカイツリーがゴールデンウイーク中に開業していれば、間違いなく、首都圏では一番の人気スポットになっていたでしょうが、営業開始は5月下旬ということで、そのおかげで、最近相次いでオープンした、ダイバーシティ東京、三井アウトレットパーク木更津、渋谷ヒカリエに、人が集中しているようです。
首都圏の動員力はやはりすごいですね。渋谷なんて年がら年中人でごった返していますが、連休中はいつも以上に混雑しています。ヒカリエは入店制限するほどの盛況で、話のタネに行ってみようかとおもったのですが、文字通りの長蛇の列を見て、即座にあきらめました。
元々、行列やら人混みは嫌いだし、人と同じようなことをするのを好まず、長時間待ってまで入店するなんてばかばかしいと思っていたのですが、「あわよくば」とついつい欲をかいてしまいました。辛口の小島慶子さんもツイッターで、「原宿や渋谷に新しい場所が出来て大賑わいだと聞いた。なんで空いてから行かないんだろう…いや、いいんだけど、不思議で」とつぶやいていて、同感だったんですけどね。欲張りなものでつい・・・。
山田五郎さんだったと思いますが、辛辣な批評をしていて、ヒカリエは従来の百貨店の延長上だし、ダイバーシティは、低価格帯のファッションブランドばかりで、安売りによる客集めにすぎず、木更津のアウトレットモールも同様だ、みたいなことを指摘されていました。
大きな施設をつくって、人を集めようとすると、どうしても従来の延長上みたいな発想にならざるを得ない部分もあるんでしょうけどね。ヒカリエみたいな都心の一等地だと、人を集めやすいでしょうから、ほんの少し目新しさを打ち出しておけば、ある程度は、うまくやっていけるでしょう。
ヒカリエに入っているブランドを見る限り、人気があって勢いも感じられるお店が多いですが、山田さんの指摘通り、その辺の百貨店とは大きく変わらない感じです。アドバンテージとしては、店が多いので、はしごせずに済むことぐらいでしょうか? ただ、欲しいものを探すなら、私は新宿の伊勢丹メンズとか丸井メンとかの方が、男性用に特化していて、よくまとまっているので、使い勝手がいいと思いますけどね。
ダイバーシティは時間があったので、連休直前に行ってみましたが、これまた山田さんの言った通りですね。若い世代に人気がある低価格帯の衣料品のブランドが充実しているので、平日でしたけど、若い人でそこそこごった返していました。連休中もかなりの集客なんでしょうね。
ただ、基本的な施設づくりとしては、郊外の「イオンモール」と変わりありません。「ユニクロ」「ABCマート」「タワーレコード」「ダイソー」といったよく見かける面々が入店しています。
お台場のテレビ局が近隣ということもあってか、やたらとダイバーシティを取り上げるので、どんなにすごいのかと思いましたが、まあ、想像できる範囲だと思います。ガンダムのテーマパークみたいなのがあるのと、ラウンドワンがあるのが、ショッピングだけでなく遊べるので使い勝手がいいところでしょうか? 「フォーエバー21」とか「H&M」が一か所にあるのは便利かもしれませんね。
日本初上陸という「アメリカン・イーグル」に行ってみましたが、鳴り物入りの割には大したことありませんでした。アメリカンカジュアルにありがちなんですが、生地の質や縫製がとても粗雑です。値段は安めなのですが、安物買いの銭失いになりかねないなという気がします。
これだったら、私は「GAP」の方が、ちょっと値段は高いけど、まだ品質はいいので、値打ちはあると思います。GAPのデニム類は結構、つくりもしっかりしていて使い勝手がいいですけどね。
ためしにアメリカンイーグルの5900円のジーンズを買ってみたんですけど、スリムタイプの割には、やや横に広がっているし、一日来たら、ウエストがやや広がってしまいました。私はダイエットが奏功し、今では、スキニースリムのものも余裕で着られるので、これでは困ります。
アメリカンイーグルってかなり古くからあるブランドのようですが、私は米国で暮らしたことがあるにもかかわらず、存在は知りませんでした。カジュアルはGAPやその系列のバナナリパブリックで大体、要は足りますからね。ちょっと期待していたんですけど、明らかに品質もデザインもGAPより見劣りするので、使えないですね。
所詮は、米国人の商売ですからね。しょうがありません。ユニクロがいかに価格と品質を両立させるために、努力に次ぐ努力を積み上げているかということが分かります。
お台場はアクセスが悪いので、“値ごろ感”みたいなコンセプトをはっきりさせた方が集客しやすいんでしょうけどね。近くのヴィーナス・フォートが中の上あたりの客層をターゲットにしている分なおさらでしょう。
今でこそ、お台場は注目を集めるようになりましたが、だだっ広い上、明確な都市計画を基に、まちづくりを進めたわけでないので、街歩きをすると長い距離を歩かないといけなかったり、やたらと階段を上り下りしなければならず、非常に疲れます。もっとコンパクトで効率的な街にすれば魅力は増すと思うんですけどね。
木更津のアウトレットは、遠いので何かそちらの方面に用事がなければ、行く機会はなさそうですね。敷地面積が広そうなので、おそらく、その辺のアウトレットよりもたくさんの店が集まっているのでしょう。三井アウトレットは幕張や南大沢にあるし、プレミアムアウトレットも佐野にあるので、まあ、これらで用は足りますね。
アウトレットも、よほど吟味して選ばないと、買って帰って、いざ着てみたらがっかりすることはよくあるので、最近はあまり利用していません。低価格品には低価格品なりの理由があるということです。
相次いで大きな商業施設が開業したので、どうしても関心が向いてしまいますが、世の中がひっくり返るようなものではどうやらなさそうですね。長引く景気低迷や若者がお金を使わなくなったことなどなど、全体として、陰気くさいムードが続いていることに変わりはなく、それを吹き飛ばすようなブレークスルーがほしいものです。
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幸せか?
日本の政財界、エリート官僚の表情を見ると、一様に貧乏神に取りつかれたような、しょぼくれた表情をしています。日本だけでなく、海外を見渡しても、同様ですね。欧州の債務問題を話し合う、サミットの会議場の映像なんか見ていると、彼らは今でも世界を動かす、一握りの人たちではあるのですが、マイナスのオーラがむんむんと漂っています。
自分たちのつくったルールで、世界中の人たちを支配しているのに、やりたい放題やっているうちに、行き詰ってしまい、結局、自らの立場を守るのに汲々としているような状態です。まさに「覇道」なるものの本質ですよね。誰かを蹴落としてのし上がったものは、自分たちも蹴落とされる可能性があるのです。
所詮は他人の不幸の上に成り立っているシステムなので、意識するとしないにかかわらず、うしろめたい部分を常に抱えています。そんなシステムの上にのっかっている人は本当の意味で幸せを感じられるのでしょうか?
科学技術が発達して、やり方さえうまくやれば、多くの人を経済的に豊かにする人は可能であるのに、あえてその道を目指さず、自分たちの権力や地位、存在を誇示するためだけに、他者から搾取するための巧妙なシステムをつくり上げたのですが、その矛盾と限界にぶち当たってしまったのです。
覇道が根底にある世界で生きてきた人たちだから、指導者層から下々に至るまで、発想を変えるのは容易ではないでしょうけど、一人でも多くの人を幸せにできる資質がある人間こそ、人の上に立つ資格があるのだという、「王道」的な価値観に転換しないと、世界全体がますます幸薄く、貧しくなってしまうでしょうね。
先日、私が通っていた米国の高校の関係者の集まりが、東京であったのですが、リーマン・ショックでひと波乱あり、かつては世界をまたに活躍していた(今から考えると金融詐欺のようなことを働いていた)連中は見る影もなく、地元で細々と商売しているような人たちが健在であったりと、人間ドラマが見られました。
総じて米国人は貧しくなりましたよね。私のいた学校は、私立学校で裕福な生徒が通っていたのですが、かつてはいわゆるWASP(白人、アングロ・サクソン、プロテスタント)と呼ばれる層がほとんどでした。生徒の親は不動産業とか、車のディーラーなど地元の中小事業者が多かったですね。
今や時代は変わり、生徒の構成は中国系や台湾系、韓国系、インド系と、ITや金融、医師、弁護士など実力で這い上がった人たちの子女が中心で、WASPの比率は激減してしまいました。
みなさんはどう感じているかしりませんが、何度も言うように、白人って地頭が悪いというか、もの分かりが悪い上に、勤勉さに欠けるので、どうしても実力がものを言う世界では、敗者になってしまいます。今でもそれなりの地位にいる人というのは、家柄がいいとか、既得権にしがみついているとか、たまたま浮き沈みの少ないビジネスに携わっているとか、そんな程度の理由です。豊かになりたいと必死に努力するアジア人とガチで競争するとひとたまりもありません。
私の同級生やなんかも、日本でたとえると、商店街の呉服店のぼっちゃん、お嬢ちゃんで、商店街が寂れて、呉服業界自体もすたれてしまうと、じり貧に陥ってしまうのです。知能指数なんかを調べると、ユダヤ系、アジア系が総じて高く、白人、ヒスパニック、黒人は低いので、知能と経済的な成功は関係はないという説はあるものの、やはり、結果として表れていますよね。
私の高校時代なんかは、どこか人種差別的なものが残っていて(今もそうでしょうけどね)、日本人は一段下に見られていましたけど、私は「白人は怠け者で頭が悪い」と見抜いていたので、全然気にしていませんでした。むしろ頭の切れるインド系の奴なんかリスペクトしましたけどね。
米国ではWASPがヒエラルキーのトップで、貧乏白人、ユダヤ系、黒人、アジア系、ヒスパニック、その他が続くという構図ですが(微妙に序列が異なる分析もありますが、大体のイメージをつかんでください)、実際には頭の悪い白人が君臨するということはあり得ず、これは陰謀論の人たちの言うとおりユダヤ系が巧妙に白人、その他をコントロールし、支配下に置くというイメージでしょうか。
ブッシュ前大統領は家柄はいいものの頭の弱い白人の象徴、オバマ現大統領は出自は黒人ですがそれなりに努力して這い上がった劣位のものの象徴ですが、両者とも、どんなにあがいても、背後で支配している連中の呪縛から解き放たれることはないのです。所詮は、みこしであり、軽い方がかつぎやすい。
こうした人種差別の構図は、米国の映画やドラマ、アニメなどに垣間見られます。フレンズとかビバリーヒルズ何とかとか、サウスパークとか、単なる娯楽としてだけではなく、背後にあるものを読み解くことも大事です。
白人にせよ、黒人にせよ、うまく利用されてきたのですが、新たに台頭してきたアジア系が勤勉でしかも優秀で、非常に使い勝手がいいということで、彼らに取って代わろうとしています。
米国のヒエラルキーはまさに世界の縮図であり、怠け者で頭のわるい連中が淘汰され、勤勉で地頭のよい人たちがのし上がっていくという、ダイナミズムを反映しています。白人、黒人に関してはかわいそうだなと思う反面、長く付き合っていると、エゴイズムむき出しで、怠惰、無責任、無思慮、空気を読めないという、致命的な欠点も目につくので、仕方ない側面も多いです。
長年、虎の威を借りて威張り腐ってきた白人が没落するのは、ざまあ見ろという感じでもあるのですが、覇道、王道にかかわらず、こういうヒエラルキーができてしまうのは必然であり、残酷でもあります。
人類のとても醜い、嫌らしい部分なのですが、こういう世界だからこそ、多くの人がそれぞれの立場で、それなりに幸せを感じられる、一方的に搾取、奪われるシステムでなく、恩恵を広くいきわたらせるような仕組みが必要なのです。実践はなかなか難しいのですが。
自分たちのつくったルールで、世界中の人たちを支配しているのに、やりたい放題やっているうちに、行き詰ってしまい、結局、自らの立場を守るのに汲々としているような状態です。まさに「覇道」なるものの本質ですよね。誰かを蹴落としてのし上がったものは、自分たちも蹴落とされる可能性があるのです。
所詮は他人の不幸の上に成り立っているシステムなので、意識するとしないにかかわらず、うしろめたい部分を常に抱えています。そんなシステムの上にのっかっている人は本当の意味で幸せを感じられるのでしょうか?
科学技術が発達して、やり方さえうまくやれば、多くの人を経済的に豊かにする人は可能であるのに、あえてその道を目指さず、自分たちの権力や地位、存在を誇示するためだけに、他者から搾取するための巧妙なシステムをつくり上げたのですが、その矛盾と限界にぶち当たってしまったのです。
覇道が根底にある世界で生きてきた人たちだから、指導者層から下々に至るまで、発想を変えるのは容易ではないでしょうけど、一人でも多くの人を幸せにできる資質がある人間こそ、人の上に立つ資格があるのだという、「王道」的な価値観に転換しないと、世界全体がますます幸薄く、貧しくなってしまうでしょうね。
先日、私が通っていた米国の高校の関係者の集まりが、東京であったのですが、リーマン・ショックでひと波乱あり、かつては世界をまたに活躍していた(今から考えると金融詐欺のようなことを働いていた)連中は見る影もなく、地元で細々と商売しているような人たちが健在であったりと、人間ドラマが見られました。
総じて米国人は貧しくなりましたよね。私のいた学校は、私立学校で裕福な生徒が通っていたのですが、かつてはいわゆるWASP(白人、アングロ・サクソン、プロテスタント)と呼ばれる層がほとんどでした。生徒の親は不動産業とか、車のディーラーなど地元の中小事業者が多かったですね。
今や時代は変わり、生徒の構成は中国系や台湾系、韓国系、インド系と、ITや金融、医師、弁護士など実力で這い上がった人たちの子女が中心で、WASPの比率は激減してしまいました。
みなさんはどう感じているかしりませんが、何度も言うように、白人って地頭が悪いというか、もの分かりが悪い上に、勤勉さに欠けるので、どうしても実力がものを言う世界では、敗者になってしまいます。今でもそれなりの地位にいる人というのは、家柄がいいとか、既得権にしがみついているとか、たまたま浮き沈みの少ないビジネスに携わっているとか、そんな程度の理由です。豊かになりたいと必死に努力するアジア人とガチで競争するとひとたまりもありません。
私の同級生やなんかも、日本でたとえると、商店街の呉服店のぼっちゃん、お嬢ちゃんで、商店街が寂れて、呉服業界自体もすたれてしまうと、じり貧に陥ってしまうのです。知能指数なんかを調べると、ユダヤ系、アジア系が総じて高く、白人、ヒスパニック、黒人は低いので、知能と経済的な成功は関係はないという説はあるものの、やはり、結果として表れていますよね。
私の高校時代なんかは、どこか人種差別的なものが残っていて(今もそうでしょうけどね)、日本人は一段下に見られていましたけど、私は「白人は怠け者で頭が悪い」と見抜いていたので、全然気にしていませんでした。むしろ頭の切れるインド系の奴なんかリスペクトしましたけどね。
米国ではWASPがヒエラルキーのトップで、貧乏白人、ユダヤ系、黒人、アジア系、ヒスパニック、その他が続くという構図ですが(微妙に序列が異なる分析もありますが、大体のイメージをつかんでください)、実際には頭の悪い白人が君臨するということはあり得ず、これは陰謀論の人たちの言うとおりユダヤ系が巧妙に白人、その他をコントロールし、支配下に置くというイメージでしょうか。
ブッシュ前大統領は家柄はいいものの頭の弱い白人の象徴、オバマ現大統領は出自は黒人ですがそれなりに努力して這い上がった劣位のものの象徴ですが、両者とも、どんなにあがいても、背後で支配している連中の呪縛から解き放たれることはないのです。所詮は、みこしであり、軽い方がかつぎやすい。
こうした人種差別の構図は、米国の映画やドラマ、アニメなどに垣間見られます。フレンズとかビバリーヒルズ何とかとか、サウスパークとか、単なる娯楽としてだけではなく、背後にあるものを読み解くことも大事です。
白人にせよ、黒人にせよ、うまく利用されてきたのですが、新たに台頭してきたアジア系が勤勉でしかも優秀で、非常に使い勝手がいいということで、彼らに取って代わろうとしています。
米国のヒエラルキーはまさに世界の縮図であり、怠け者で頭のわるい連中が淘汰され、勤勉で地頭のよい人たちがのし上がっていくという、ダイナミズムを反映しています。白人、黒人に関してはかわいそうだなと思う反面、長く付き合っていると、エゴイズムむき出しで、怠惰、無責任、無思慮、空気を読めないという、致命的な欠点も目につくので、仕方ない側面も多いです。
長年、虎の威を借りて威張り腐ってきた白人が没落するのは、ざまあ見ろという感じでもあるのですが、覇道、王道にかかわらず、こういうヒエラルキーができてしまうのは必然であり、残酷でもあります。
人類のとても醜い、嫌らしい部分なのですが、こういう世界だからこそ、多くの人がそれぞれの立場で、それなりに幸せを感じられる、一方的に搾取、奪われるシステムでなく、恩恵を広くいきわたらせるような仕組みが必要なのです。実践はなかなか難しいのですが。
文明の衝突
なぜ、現在の世界(金融資本主義)が行き詰っているかについて考える上で、重要なヒントを与えてくれるのは、欧米社会が基本的に「覇道」で成り立ってきたのに対し、中国を中心とするアジア圏は「王道」を基本として考えられてきた歴史があるということです。
いろいろと細かい議論はあるのですが、覇道というのは、他人から権力や財産を奪取して支配すること。一方、王道は人の上に立つのにふさわしい人格や資質、才能を持つ人がトップやリーダーになるという考え方です。
もちろん、欧米人はいまだに野蛮ではあるものの、平和ボケ、豊かさボケしつつあるので、王道的な考え方を持っている部分もあります。一方、中国など貧しさが残っている国では、豊かになるため、勝ち残るため、他人より抜きんでようと、周りの人を蹴落とそうとする動きが強いので、覇道的な性格を強く持っています。
だから、単純に欧米=覇道、アジア=王道と単純に色分けはできず、そこが混乱の原因となり、中国に対して嫌悪感を持ったり、逆に欧米崇拝、米国依存につながったりもするのですが、根底には覇道文明、王道文明があり、そして人々の考え方にも無意識のうちに影響しているので、そこはきちんと押さえておく必要があります。
普通に考えて、欧米のビジネススタイルって他人からいかに搾取するか、ライバルをどうやって蹴落とすかということが垣間見られるので、非常に卑しいですよね。ウィン・ウィンの関係とかいいながら、準決勝とか決勝であいまみえることになる最終的には、今まで強調、連携してきた仲間を平気でつぶしにかかるのです。
いまだに根強い信奉者がいる、ビジネス・スクールなんていうのも、まさにそうですね。使われている教科書などをつぶさに分析してみると、結局は自分がどうやって実力以上に評価され、最終的には人を蹴落とすかということを身に付ける、処世術にほかなりません。
ビジネス・スクールを卒業した人たちの就職先、あるいは興した事業をみてください。いわゆるエリート層に分類される人たちなのですが、「よりよい世界をつくろう」「多くの人たちと豊かさを分かち合おう」などという発想はさらさらありません。仲間同士つるんで、卑しい投資業に飛び込むか、得体のしれないコンサルタント業を営んで法外な報酬を得るか、そんな人がほとんどです。
中には高邁な考え方を持っている人もいて、地味ながら人の役に立つ仕事をしている人もいるし、実際にそういう人を知っていますが、そういう例は全体からするとレアだと思います。
一見スマートなのですが、一皮むけば醜い本性が表れ、特に、リーマン・ショック前後は本当に嫌な部分ばかり見えましたね。うまく行っている時は、利害が一致するので協力するのですが、経済状況が一変すると、足をひっぱりあったり、責任をなすりつけたりと、見ていて怒りを通り越して、哀れを誘いました。
究極のところ、覇道というのはエゴイズムなんですよね。本来、権力、お金を持つべきでない人が、必要以上に力を持ち、一極集中してしまうことで、社会全体の分配がいびつになってしまい、格差や貧富の差を生んでしまいます。
所詮はエゴイズムなので、いわゆるエリート層にいる人たちは自分たちの立場や利益しか考えず、どんどん社会全体から活力が失われ、総体としては悲惨な結果になってしまいます。今の欧米の状況がそうですね。また、中国に対する大きな懸念も、そこにあります。
王道というのは中国の思想家、孟子が言いだしたことですが、中国では欧米とは違い、上に立つ者が下々がひもじい思いをしないようにすべきだという考え方があるものの、歴史的にみるとむしろ覇道的な状況が繰り広げられてきました。
王道の考え方を忠実に実践しようとしたのは日本ですよね。人の上に立つ者は、常にその地位にしかるべき行動を求められました。それに反するようなことがあれば、切腹、自害か、そこまではいかないにしても、潔く身を引きました。行動が伴わないのに地位に恋々とすることは恥だと思われてきました。
日本では、リーダーは、自分が統治している間、トップにいる間に何か、不祥事、良くないことが起きれば、それは恥ずかしいことだとして、自ら身を律したわけです。
太平洋戦争後の東京裁判については、細かいところにこだわると、議論が紛糾するし、本来裁かれるべき人が裁かれていないとの指摘もあり、本当にそうだと思いますが、一応、形として、いわゆるA級戦犯とされた人たちが絞首刑となったことで、納得できない部分は多々あるものの一応は、けじめをつけたといえるでしょう。国策を誤り、国全体を存亡の危機に陥れたという責任はあるわけですから、誰かが切腹あるいは自害しなければ、従来の王道に基づく、日本的な考え方からすると、かたはつかないでしょう。
不十分でしかもかつての敵国の裁きでありながらも、東京裁判ではしかるべき責任を負わされたのですが、戦後、時間がたつにつれ、こうしたリーダーとしてあるべきのマナー、美徳はどんどん失われていきました。米国の言いなりで米国債を買わされ国富を献上した財務省、外務省、“毒薬”を押し付けられ、深刻な薬害を引き起こした厚生労働省、年金を消失させてしまった社会保険庁などなど、国家を揺るがすほどの大問題、災厄を招きながら、当の本人たちはのうのうと生き残っています。
近いところでは、東京電力福島第1発電所の原発事故ですよね。政治家、経済産業省は何の責任も取らないし、当事者の東電は事故発生当日、手におえないからということで、現場から社員を引き揚げようとさえした。東電の会長、社長など、原発の安全性について、無知、無能の限りを露呈し、無策のつけで多くの国民が被害をこうむったにもかかわらず、生きながらえています。
前にも言いましたが、東電の会長、社長はさっさと切腹なり自害なりして、リーダーとしてのあるべき姿を示すべきです。企業トップとしてはとうの昔に「ダメ人間」の烙印を押されている上、人間としてもこのままおめおめと生き残って老醜をさらすのでしょうか? この人たちに生きる価値なんてあるのでしょうか? さらし者にするというのも一つの手ではありますが、日本人の美意識がそれはゆるさないでしょう。さっさと本当の意味で、この世から“身を引く”べきです。
欧米流の責任逃れのための、権利とか契約とかの概念がはびこった害悪が集約されていますね。法的責任をとればそれで免責されても、トップとして、人間として社会に対して果たすべきことを果たさなければ、道義的な責任は消えないというのが、日本的、王道的な考え方です。
早晩、欧米の金融資本主義は崩壊するでしょうし、代わって台頭する中国あるいはロシアは、欧米流ではない別の道を提示しなければならないでしょう。その時に考え方の基本になるのは、やはり覇道と王道ではないでしょうか。今、世界で起きているのは単なる欧米の没落だけでなく、覇道対王道の文明の衝突という側面もあるのです。
いろいろと細かい議論はあるのですが、覇道というのは、他人から権力や財産を奪取して支配すること。一方、王道は人の上に立つのにふさわしい人格や資質、才能を持つ人がトップやリーダーになるという考え方です。
もちろん、欧米人はいまだに野蛮ではあるものの、平和ボケ、豊かさボケしつつあるので、王道的な考え方を持っている部分もあります。一方、中国など貧しさが残っている国では、豊かになるため、勝ち残るため、他人より抜きんでようと、周りの人を蹴落とそうとする動きが強いので、覇道的な性格を強く持っています。
だから、単純に欧米=覇道、アジア=王道と単純に色分けはできず、そこが混乱の原因となり、中国に対して嫌悪感を持ったり、逆に欧米崇拝、米国依存につながったりもするのですが、根底には覇道文明、王道文明があり、そして人々の考え方にも無意識のうちに影響しているので、そこはきちんと押さえておく必要があります。
普通に考えて、欧米のビジネススタイルって他人からいかに搾取するか、ライバルをどうやって蹴落とすかということが垣間見られるので、非常に卑しいですよね。ウィン・ウィンの関係とかいいながら、準決勝とか決勝であいまみえることになる最終的には、今まで強調、連携してきた仲間を平気でつぶしにかかるのです。
いまだに根強い信奉者がいる、ビジネス・スクールなんていうのも、まさにそうですね。使われている教科書などをつぶさに分析してみると、結局は自分がどうやって実力以上に評価され、最終的には人を蹴落とすかということを身に付ける、処世術にほかなりません。
ビジネス・スクールを卒業した人たちの就職先、あるいは興した事業をみてください。いわゆるエリート層に分類される人たちなのですが、「よりよい世界をつくろう」「多くの人たちと豊かさを分かち合おう」などという発想はさらさらありません。仲間同士つるんで、卑しい投資業に飛び込むか、得体のしれないコンサルタント業を営んで法外な報酬を得るか、そんな人がほとんどです。
中には高邁な考え方を持っている人もいて、地味ながら人の役に立つ仕事をしている人もいるし、実際にそういう人を知っていますが、そういう例は全体からするとレアだと思います。
一見スマートなのですが、一皮むけば醜い本性が表れ、特に、リーマン・ショック前後は本当に嫌な部分ばかり見えましたね。うまく行っている時は、利害が一致するので協力するのですが、経済状況が一変すると、足をひっぱりあったり、責任をなすりつけたりと、見ていて怒りを通り越して、哀れを誘いました。
究極のところ、覇道というのはエゴイズムなんですよね。本来、権力、お金を持つべきでない人が、必要以上に力を持ち、一極集中してしまうことで、社会全体の分配がいびつになってしまい、格差や貧富の差を生んでしまいます。
所詮はエゴイズムなので、いわゆるエリート層にいる人たちは自分たちの立場や利益しか考えず、どんどん社会全体から活力が失われ、総体としては悲惨な結果になってしまいます。今の欧米の状況がそうですね。また、中国に対する大きな懸念も、そこにあります。
王道というのは中国の思想家、孟子が言いだしたことですが、中国では欧米とは違い、上に立つ者が下々がひもじい思いをしないようにすべきだという考え方があるものの、歴史的にみるとむしろ覇道的な状況が繰り広げられてきました。
王道の考え方を忠実に実践しようとしたのは日本ですよね。人の上に立つ者は、常にその地位にしかるべき行動を求められました。それに反するようなことがあれば、切腹、自害か、そこまではいかないにしても、潔く身を引きました。行動が伴わないのに地位に恋々とすることは恥だと思われてきました。
日本では、リーダーは、自分が統治している間、トップにいる間に何か、不祥事、良くないことが起きれば、それは恥ずかしいことだとして、自ら身を律したわけです。
太平洋戦争後の東京裁判については、細かいところにこだわると、議論が紛糾するし、本来裁かれるべき人が裁かれていないとの指摘もあり、本当にそうだと思いますが、一応、形として、いわゆるA級戦犯とされた人たちが絞首刑となったことで、納得できない部分は多々あるものの一応は、けじめをつけたといえるでしょう。国策を誤り、国全体を存亡の危機に陥れたという責任はあるわけですから、誰かが切腹あるいは自害しなければ、従来の王道に基づく、日本的な考え方からすると、かたはつかないでしょう。
不十分でしかもかつての敵国の裁きでありながらも、東京裁判ではしかるべき責任を負わされたのですが、戦後、時間がたつにつれ、こうしたリーダーとしてあるべきのマナー、美徳はどんどん失われていきました。米国の言いなりで米国債を買わされ国富を献上した財務省、外務省、“毒薬”を押し付けられ、深刻な薬害を引き起こした厚生労働省、年金を消失させてしまった社会保険庁などなど、国家を揺るがすほどの大問題、災厄を招きながら、当の本人たちはのうのうと生き残っています。
近いところでは、東京電力福島第1発電所の原発事故ですよね。政治家、経済産業省は何の責任も取らないし、当事者の東電は事故発生当日、手におえないからということで、現場から社員を引き揚げようとさえした。東電の会長、社長など、原発の安全性について、無知、無能の限りを露呈し、無策のつけで多くの国民が被害をこうむったにもかかわらず、生きながらえています。
前にも言いましたが、東電の会長、社長はさっさと切腹なり自害なりして、リーダーとしてのあるべき姿を示すべきです。企業トップとしてはとうの昔に「ダメ人間」の烙印を押されている上、人間としてもこのままおめおめと生き残って老醜をさらすのでしょうか? この人たちに生きる価値なんてあるのでしょうか? さらし者にするというのも一つの手ではありますが、日本人の美意識がそれはゆるさないでしょう。さっさと本当の意味で、この世から“身を引く”べきです。
欧米流の責任逃れのための、権利とか契約とかの概念がはびこった害悪が集約されていますね。法的責任をとればそれで免責されても、トップとして、人間として社会に対して果たすべきことを果たさなければ、道義的な責任は消えないというのが、日本的、王道的な考え方です。
早晩、欧米の金融資本主義は崩壊するでしょうし、代わって台頭する中国あるいはロシアは、欧米流ではない別の道を提示しなければならないでしょう。その時に考え方の基本になるのは、やはり覇道と王道ではないでしょうか。今、世界で起きているのは単なる欧米の没落だけでなく、覇道対王道の文明の衝突という側面もあるのです。
フロンティア?
数年前、植物工場について研究したことがあります。工場で農作物を栽培するなんて、手塚治虫のマンガのようにSFチックで、夢があると期待して、いろいろと調べたのですが、結論から言うと、密閉された工場でLEDなどのライトを当てて栽培する方法のものは現時点では、はっきり言って見込みがありません。もし、今でも「夢の植物工場」云々言う輩がいるならば、詐欺の可能性があります。
東京電力福島第1発電所事故の余波で、原子力発電所が相次いで閉鎖し、節電が叫ばれ、しかも電気料金の値上げが取りざたされている時に、電気を消費してまでわざわざ栽培することに経済性や意味はあまりないですね。
現在、植物工場で栽培されているのは、サニーレタスのような葉物野菜がほとんどで、所詮は電気の明かりの力でしかないので、トマトのような大きな実のなる野菜や、イチゴとか糖分の多い果物、さらに米、麦のような穀物なんかは、やろうと思えばできなくはないのでしょうが、大量の電力を必要とするため、コストに見合わず、実質的に不可能とみていいでしょうね。
工場で管理されているので、安全だというのが売りのようですが、人によっては、工場で作られた農作物にはなんとなく後ろ暗いイメージを持つでしょうし、さんさんと輝く太陽の下でのびのびと育った農作物の方が健全だし、電気の弱っちい力と比べ、あらためて太陽光というのは私たちに大きな恵みをもたらし、偉大であるということが分かります。
一部太陽光を取り入れて、ビニールハウスとのハイブリッドのような形態なら、将来性があると思います。ただ、その場合にしても、燃料費がかかるでしょうから、コストに見合う作物があるのか、工場で作るのにふさわしい作物があるのかについて、よくよく考える必要があります。かなり限定されるでしょうね。
知り合いの調査会社の人に聞いたら、屋内で栽培するのに最も適している作物は「大麻」なのだそうです。わずかな光で良く育つし、野菜なんか比べものにならない破格の価格で取引されています。もちろん冗談ですがね。要は植物工場というものはかなり割に合わないのです。
植物工場に限らず、夢の技術、未来を切り開く産業みたいにもてはやされる分野がどれだけ、将来性のあるものなのか、まゆつばなものは少なくないのではないのでしょうか。
医療やバイオ技術あたりも、期待されている割には、ものになるものはめったにないのではないでしょうか。21世紀に入って久しいのに、いまだに髪の毛1本まともに生やせないんですよ。幹細胞の応用なんて、一部では進んでいる部分もあるんでしょうけど、まだまだ道遠しという感じですよね。
みんな漠然と科学技術が切り開く明るい未来みたいなものを想像していますが、実は、人間の力なんて、そのうち限界に達するのではないか、そんな気がしています。
また、インターネットのような革新的なブレークスルーが起きたとしても、それは経済のパイを拡大する方向ではなくて、むしろ効率性が高まり、無駄の排除、今あるもののリストラへと向かってしまうのではないかという気もします。
電気製品なんか、どんどん小型化し、使い勝手もよくなりますが、部品、部材が少なくてすむので、経済への波及効果は小さくなる一方だし、なにより、製品価格も猛烈な勢いで下がっていくので、大手メーカーが巨額の投資をして生産ラインをつくっても、採算ベースに乗らなくなってしまっています。
実は、世界から夢がどんどんなくなりつつあるのかもしれないということも頭に入れておかなければなりません。そうなると、大切なのは、人生をどのように豊かなものにしてくか、ソフト的なものや、ちょっとした工夫、アイデアですよね。
地道に道を究めたり、努力をして何かを成し遂げることこそが一番価値があるのだということに多くの人が気が付く日が来るのは、そう遠くないのかもしれません。
東京電力福島第1発電所事故の余波で、原子力発電所が相次いで閉鎖し、節電が叫ばれ、しかも電気料金の値上げが取りざたされている時に、電気を消費してまでわざわざ栽培することに経済性や意味はあまりないですね。
現在、植物工場で栽培されているのは、サニーレタスのような葉物野菜がほとんどで、所詮は電気の明かりの力でしかないので、トマトのような大きな実のなる野菜や、イチゴとか糖分の多い果物、さらに米、麦のような穀物なんかは、やろうと思えばできなくはないのでしょうが、大量の電力を必要とするため、コストに見合わず、実質的に不可能とみていいでしょうね。
工場で管理されているので、安全だというのが売りのようですが、人によっては、工場で作られた農作物にはなんとなく後ろ暗いイメージを持つでしょうし、さんさんと輝く太陽の下でのびのびと育った農作物の方が健全だし、電気の弱っちい力と比べ、あらためて太陽光というのは私たちに大きな恵みをもたらし、偉大であるということが分かります。
一部太陽光を取り入れて、ビニールハウスとのハイブリッドのような形態なら、将来性があると思います。ただ、その場合にしても、燃料費がかかるでしょうから、コストに見合う作物があるのか、工場で作るのにふさわしい作物があるのかについて、よくよく考える必要があります。かなり限定されるでしょうね。
知り合いの調査会社の人に聞いたら、屋内で栽培するのに最も適している作物は「大麻」なのだそうです。わずかな光で良く育つし、野菜なんか比べものにならない破格の価格で取引されています。もちろん冗談ですがね。要は植物工場というものはかなり割に合わないのです。
植物工場に限らず、夢の技術、未来を切り開く産業みたいにもてはやされる分野がどれだけ、将来性のあるものなのか、まゆつばなものは少なくないのではないのでしょうか。
医療やバイオ技術あたりも、期待されている割には、ものになるものはめったにないのではないでしょうか。21世紀に入って久しいのに、いまだに髪の毛1本まともに生やせないんですよ。幹細胞の応用なんて、一部では進んでいる部分もあるんでしょうけど、まだまだ道遠しという感じですよね。
みんな漠然と科学技術が切り開く明るい未来みたいなものを想像していますが、実は、人間の力なんて、そのうち限界に達するのではないか、そんな気がしています。
また、インターネットのような革新的なブレークスルーが起きたとしても、それは経済のパイを拡大する方向ではなくて、むしろ効率性が高まり、無駄の排除、今あるもののリストラへと向かってしまうのではないかという気もします。
電気製品なんか、どんどん小型化し、使い勝手もよくなりますが、部品、部材が少なくてすむので、経済への波及効果は小さくなる一方だし、なにより、製品価格も猛烈な勢いで下がっていくので、大手メーカーが巨額の投資をして生産ラインをつくっても、採算ベースに乗らなくなってしまっています。
実は、世界から夢がどんどんなくなりつつあるのかもしれないということも頭に入れておかなければなりません。そうなると、大切なのは、人生をどのように豊かなものにしてくか、ソフト的なものや、ちょっとした工夫、アイデアですよね。
地道に道を究めたり、努力をして何かを成し遂げることこそが一番価値があるのだということに多くの人が気が付く日が来るのは、そう遠くないのかもしれません。
しつけ
政治主導、地方分権の実現の2点において、私は橋下徹大阪市長を支持していますが、労働組合と戦ったり、教育現場に介入したりとなかなか、本題に入ってくれそうにありません。やるとしたらやはり順序が逆なのではないかと思いますが、本当の意味で必要な改革が実現する前に体力、気力を使い果たさないことを祈ります。
労働組合に対する圧力は、中央官庁の官僚の“独裁”や横暴ぶりとも重なり、改革を進める上で、障害となる者を排除する上で必要な部分があるので、やむを得ない部分はあるとして、教育現場に対するさまざまなアクションは、注目度が高く、世間も敏感に反応するので、あえて敵をつくるのはどうかと思います。もう少し要領よく、冷徹かつ粛々とやってもいいのではないでしょうか。
とはいえ、軟弱で情けない大人の姿を反映して、今の子供は基礎的なことが身についていないので、もし、日本という国をこれまで通り、「日本人」が治め、歴史を受け継いでいく気概があるのであれば、きちんと「しつけ」ることが必要だと思います。
日本人は、元来、恵まれた環境で育っているので、大らかさとか寛容さとか、いい意味での「緩さ」をもっているんですよね。それがこれからの時代、国際社会で強力な武器になることは間違いないと思います。
ただ、緩さがある一方で、締めるところは締める。メリハリがあるからこそ、緩さが生きてくるわけであって、けじめもなく、緩い状態を続けるだけでは、それは緩いを通り越して堕落につながります。
日本人はどちらかというとガチでの争いを好まず、他人と正面からぶつかり合うのを回避する傾向にあるので、子供に対しても、しっかり向き合うのが苦手という傾向があります。それが悪い意味での緩さ、やさしさにつながり、英語でいうところのスポイル(spoil)になってしまっていますね。
それに拍車をかけるのが過度な権利意識、人権思想ですね。「子供は社会の宝」「特別な存在」「無限のポテンシャルがある」みたいな、気色の悪い言葉にころっとだまされて、自由放任のまま、子供を好き放題にさせ、結局、その子の素質をつぶしてしまうという。
どんなに潜在能力があっても、それを引き出すように厳しい訓練をしないと、才能は開花しないのです。スポーツの世界なんかはまさにそうですね。もちろん天才がいて努力せずともものすごい結果を出す人もいるのですが、長続きしないだろうし、有頂天になって何も現実社会のことを知らないまま、突然精神を病んだり、転落してしまうこともあります。
橋下市長のやろうとしていることが、果たして効果があるのかどうかは、かなり疑問のある部分はありますが、何とかしないと、困った子供たち(本人も成人してから困ることになるでしょう)が量産されることになるでしょう。そして、そういう若い世代が増殖することで本当に困るのは、彼らに支えてもらうことになる上の世代なんですよね。そういう現実的な問題もあります。
私の周りの教育関係者によると、口々に言うのは、やはり家庭でのしつけがなっていないということ。教育うんぬん以前の問題ですよね。「授業中じっとしていられない」「人の話を聞けない」「会話ができない」「問題を指摘されるとささいなことでもいじけてしまう」・・・などなど。
どんな社会でも最低限のマナー、規範を守らなければならないわけで、もしそれが間違っているというのならば、そのマナー、規範を徹底的に研究し、実践し尽くした上で、問題点をあぶりだし、変えるべく発言、行動しなければならない。当然のことです。
また、世の中、人生は、理不尽で不条理なことだらけです。私たちの世代でもすでにそうでしたが、日本で教育を受けると、きれいごとに覆い隠されてしまい、本当に大切なことをなかなか学べないですね。
単に年齢が上であるとか、力が強いとか、たくさん金を持っているとか、立場が違うということだけで、不当な要求をしたり、弱いものに対しては徹底的に付けこんでくる奴なんてゴロゴロいるのです。残念なことではあるのですが、それが人間、社会の嫌な一面です。それをうまくはね返したり、器用にやりすごすのも、生きていく上では悲しいし、みじめなことなのですが、必要なことです。
必要なのはしつけというよりは、むしろ、現実の厳しさを知る機会でしょうかね。バブルが大昔に崩壊し、経済的にはしみったれた状況でしか育っていないはずなのですが、最低限のものは満たされていないので、緩やかな環境に慣れきってしまっているのでしょう。
これは子供ではなく、大人の問題なのです、もっともっと厳しい現実を直視し、どうやって生き残っていくか、残すべきものを残していくか、しっかり考えていないし、ただ流れにまかせ、強い奴にやられ放題やられ、どうすれば一矢報いられるか、逆転できるか、という発想を自分自身が持ち合わせていないので、子供にも大切なことを伝えられません。
誰かがいみじくも言っていましたが、文化大革命みたいなやり方になるのであれば、橋下流改革はまったく賛同できませんが、私たち上の世代の行動、気構えのあり方を含めて、しつけをどうするか議論が進むことは良い事ではないかと思います。
労働組合に対する圧力は、中央官庁の官僚の“独裁”や横暴ぶりとも重なり、改革を進める上で、障害となる者を排除する上で必要な部分があるので、やむを得ない部分はあるとして、教育現場に対するさまざまなアクションは、注目度が高く、世間も敏感に反応するので、あえて敵をつくるのはどうかと思います。もう少し要領よく、冷徹かつ粛々とやってもいいのではないでしょうか。
とはいえ、軟弱で情けない大人の姿を反映して、今の子供は基礎的なことが身についていないので、もし、日本という国をこれまで通り、「日本人」が治め、歴史を受け継いでいく気概があるのであれば、きちんと「しつけ」ることが必要だと思います。
日本人は、元来、恵まれた環境で育っているので、大らかさとか寛容さとか、いい意味での「緩さ」をもっているんですよね。それがこれからの時代、国際社会で強力な武器になることは間違いないと思います。
ただ、緩さがある一方で、締めるところは締める。メリハリがあるからこそ、緩さが生きてくるわけであって、けじめもなく、緩い状態を続けるだけでは、それは緩いを通り越して堕落につながります。
日本人はどちらかというとガチでの争いを好まず、他人と正面からぶつかり合うのを回避する傾向にあるので、子供に対しても、しっかり向き合うのが苦手という傾向があります。それが悪い意味での緩さ、やさしさにつながり、英語でいうところのスポイル(spoil)になってしまっていますね。
それに拍車をかけるのが過度な権利意識、人権思想ですね。「子供は社会の宝」「特別な存在」「無限のポテンシャルがある」みたいな、気色の悪い言葉にころっとだまされて、自由放任のまま、子供を好き放題にさせ、結局、その子の素質をつぶしてしまうという。
どんなに潜在能力があっても、それを引き出すように厳しい訓練をしないと、才能は開花しないのです。スポーツの世界なんかはまさにそうですね。もちろん天才がいて努力せずともものすごい結果を出す人もいるのですが、長続きしないだろうし、有頂天になって何も現実社会のことを知らないまま、突然精神を病んだり、転落してしまうこともあります。
橋下市長のやろうとしていることが、果たして効果があるのかどうかは、かなり疑問のある部分はありますが、何とかしないと、困った子供たち(本人も成人してから困ることになるでしょう)が量産されることになるでしょう。そして、そういう若い世代が増殖することで本当に困るのは、彼らに支えてもらうことになる上の世代なんですよね。そういう現実的な問題もあります。
私の周りの教育関係者によると、口々に言うのは、やはり家庭でのしつけがなっていないということ。教育うんぬん以前の問題ですよね。「授業中じっとしていられない」「人の話を聞けない」「会話ができない」「問題を指摘されるとささいなことでもいじけてしまう」・・・などなど。
どんな社会でも最低限のマナー、規範を守らなければならないわけで、もしそれが間違っているというのならば、そのマナー、規範を徹底的に研究し、実践し尽くした上で、問題点をあぶりだし、変えるべく発言、行動しなければならない。当然のことです。
また、世の中、人生は、理不尽で不条理なことだらけです。私たちの世代でもすでにそうでしたが、日本で教育を受けると、きれいごとに覆い隠されてしまい、本当に大切なことをなかなか学べないですね。
単に年齢が上であるとか、力が強いとか、たくさん金を持っているとか、立場が違うということだけで、不当な要求をしたり、弱いものに対しては徹底的に付けこんでくる奴なんてゴロゴロいるのです。残念なことではあるのですが、それが人間、社会の嫌な一面です。それをうまくはね返したり、器用にやりすごすのも、生きていく上では悲しいし、みじめなことなのですが、必要なことです。
必要なのはしつけというよりは、むしろ、現実の厳しさを知る機会でしょうかね。バブルが大昔に崩壊し、経済的にはしみったれた状況でしか育っていないはずなのですが、最低限のものは満たされていないので、緩やかな環境に慣れきってしまっているのでしょう。
これは子供ではなく、大人の問題なのです、もっともっと厳しい現実を直視し、どうやって生き残っていくか、残すべきものを残していくか、しっかり考えていないし、ただ流れにまかせ、強い奴にやられ放題やられ、どうすれば一矢報いられるか、逆転できるか、という発想を自分自身が持ち合わせていないので、子供にも大切なことを伝えられません。
誰かがいみじくも言っていましたが、文化大革命みたいなやり方になるのであれば、橋下流改革はまったく賛同できませんが、私たち上の世代の行動、気構えのあり方を含めて、しつけをどうするか議論が進むことは良い事ではないかと思います。