きれいごと

  東京電力福島第1原発事故後の放射性物質に関しての私の見解は、以前にも示しましたが、原発から半径3キロとか5キロとか極端に近い場所以外は、安全だと考えていいと思います。
  局所的に放射性物質が集まり、放射線が強い場所もありますが、世田谷かどこかの民家でラジウムが敷地内に放置されていて、長年にわたって周辺を大きく上回る放射線を浴びていて、全然健康に異常がなかったというケースもありましたし、宇宙飛行士の古川聡さんは5カ月以上宇宙にいて100~150ミリシーベルトの放射線を浴びていると推計されていますが、福島原発の後始末の作業員だってそんな高線量はめったに浴びません。古川さんはがんになる可能性が極端に高くなるのでしょうか?
  原発事故が起こってはいけない環境では、どんなわずかな兆候でも見逃してはいけないので、極めて厳格な放射線管理が行われていましたが、すでに事故は起きてしまったのです。で、この先、セシウムの半減期とされる30年先まで放射性物質と付き合っていかなければなりません。
  科学的な知見では、年間100ミリシーベルト放射線を浴びたとしても、ほんのわずかにがんの発生率が高まるだけだと現時点では考えられています。中には化学物質過敏症と同様、放射性物質に極端に弱い人がいて、わずかな放射性物質が害になる人もいます。でもそれはごくわずかで、本当に申し訳ないですが、「お気の毒」というしかないし、そういう人にはしっかり賠償すべきだと思います。
  ただ、ほとんどの人は宇宙飛行士の古川さん同様、平常時の規制値の100倍くらいの放射線を浴びたって、ほとんど影響はないのです。というより、人間はそれほどやわではないということです。
  これも一種の潔癖症なんでしょうね。日本人特有の「穢れ」に対する考え方なんかも影響しているのでしょう。漫画家の小林よしのりさんが、脱原発に舵を切ったのはうなずけます。
  もちろん、放射性物質が一般に考えられているほど害がないというのと、事故を起こした責任、今後の原発行政のあり方をどうするかという問題は別物です。やはり、事故で多くの人を危険にさらし、避難指示などで過大な負担をかけ、発電所の停止で経済にパニックをもたらした東電の責任は重いし、どんどん刑事告発して、逮捕して、損害賠償請求して、償わせるべきです。
  徹底的に責任追及した上で、原発をどうするか考えるべきでしょうね。あらためて分かったのは私たちの生活は電気なしでは成り立たないし、電力の安定供給は国際競争力に直結する問題でもあります。また、廃棄物処理の問題などはあるにせよ、原油、天然ガス、石炭の供給に支障をきたした場合のヘッジとして、やはりなくてはならないでしょう。
  理想としては100%安全で、クリーンであればいいわけですが、そんなものはありえません。日本の火力発電所のエネルギー効率は世界一で、低公害ですが、それでも汚染物質は出るのです。そして多くの人が忌み嫌う二酸化炭素も。
  狭いスペースで大きな出力が得られ、しかも安定して稼働できる原子力を続けるのもそれなりの理があってのことなのです。また、人間というのは危険なものと共存し、ぎりぎりのところで生きていく宿命にあるのです。それが文明というものです。
  自動車だって火炎瓶の上に乗っているようなものだし(実際に事故を起こすと火災の危険性がある)、飛行機だってわずかな確率ではありますが事故が起きます。震災の時に自動停止した新幹線だって結果オーライでしたが、橋脚が落ちたり、地震の揺れ方によっては激しく脱線し、大惨事になっていた可能性は否定できません。
  自分の身の回りをみても、確率は極めて低く抑えられていますが、予期せぬ事態が起きて、暴走したら、危ないものは少なくありません。
  だからどこかで折り合っていかなければならないのです。「絶対大丈夫」なんてものはありえないわけで、必要以上に「ゼロ」を求めるのは、きれいごとが過ぎるし、ある意味危険な考え方です。行き過ぎた潔癖症の人と同じですよね。
  最近は放射性物質が混じった砕石を使用したコンクリートでつくられたマンションなんかで比較的高い放射線量が検出されて大騒ぎしています。また賠償みたいな話になっていますが、もうやめませんかね、いいかげんに。
  住んでいる人は気分が悪いでしょうけど、「健康に悪影響なない」としているのなら、そこで済むしかないのではないでしょうか。原発周辺から逃げた人が住んでいるケースが多いようですが、そもそもさっさと可能な限り、避難解除して、帰宅させれば何の問題もなかったわけですし、実際に帰宅したら、そのくらいの放射線は浴びるのだから、別に何の問題もないのです。
  きれいごとに縛られて本当に馬鹿なことになっています。しかも政権が政権だけに、大人の判断ができないし、うまく、不安を抑えたり、目をそらすこともできない。きれいごと引っ込めれば、うまく行くことは多いでしょうね。
  今回の原発事故で思わぬ副産物というか、各地で争われている原爆訴訟だって怪しくなってきましたよね。爆心地付近で瞬間的に強い放射線を浴びた人が健康を害したというのは分かりますが、どうも爆心地から近い場所なんだけれども、健康を害すほどの放射性物質を浴びたのか疑問を持たざるを得ない原告もいるわけです。何より原爆投下から今年で67年。これだけ長い間生きたのなら、御の字ではないのでしょうか? 普通の人生ですよね。低線量被ばく云々とか反論はあるのでしょうけれども。
  みんな漠然と原爆を受けた人がかわいそうだとか、放射能は怖いとか、信じ込まされていたので、「被爆者かわいそう」みたいな意識を過剰に持ってしまい、シンパシーが広がったわけですが、結局は過剰だったというか、きれいごとが過ぎたわけです。
  やはり、是々非々でやらないと、いちいち賠償にまともに賠償に応じていたら、国家財政が破綻します。B型肝炎訴訟なんかも、そのあたり、因果関係をきちんと精査しないで、きれいごとばかりで適当な政治決着をしてしまうと、国民は過大な負担を背負うことになってしまいます。
  人権だとか労働者の権利だとかいうのも、大体において、きれいごとが過ぎてしまい、おかしな状況がヘドロのように積み重なってしまっています。今までは日本は豊かな国だったので、ある程度、エゴやわがままも許されたのでしょうが、これからは、きちんと払うべきものは払う、拒絶するものは拒絶するで、きちんと峻別しないといけないのです。
  でないと、公金や人の善意に必要以上にむらがる、ダメ人間が増殖し、いつか悪貨が良貨を駆逐してしまいます。正直者が馬鹿をみたり、まともな勤労意欲を持った人が、やる気を失うことになりかねません。きれいごと、くそくらえです。