ポスト工業化社会

  工場を建てて、あるいは誘致して、工業製品を生産し、輸出したり、国内で消費したりすることで、外貨を稼ぎ、国民所得の拡大を目指すというパターンは、成功モデルとして、広く認識されてきましたが、これから先、この“黄金律”は簡単には通用しなくなるでしょうね。
  お金やモノ、技術、人が自由に移動できるようになった結果、工場も簡単に国境を越えられるようになり、インフラや税制、補助金、労働コストなど、よりよい条件を求めて、短期間で簡単に生産拠点を移すことができるようになりました。工場ができたからといって、長期的に安定して生産が続くとは限らないのです。
  しかも、価格競争が進み、生産が徹底的に効率化、合理化されるようになった結果、工業化することによって得られる利益は激減し、労働者に支払われる賃金も抑えられます。だから、工場をつくったからといって、かつてのように簡単に豊かさに直結するとはいえなくなりました。
  日本の高度成長期を振り返ると、本当にめぐまれた時代だったと言えるでしょう。工業製品全体の需要が右肩上がりだった上、価格下落圧力も現在に比べてはるかに弱く、より付加価値の高い高級品が売れるという好条件がそろっていました。
  企業は単純な右肩上がりの成長に合わせて、緩い経営方針で臨めたし、社員、工場で働く従業員も、賃金がどんどん上がり、さらに所得効果で、利幅の高い高級品が売れ、国全体が好況になるという、好循環が続き、世界第2位の経済大国の地位が数十年にわたって続きました。絶頂期には実質的に1人当たりのGDPが米国を抜き、瞬間的に世界一にもなりました。
  その頃と比べると、格段に製造業の力は落ちています。もちろん、日本が経済大国として台頭し、自らの地位が危うくなった米国が製造業の力をそぐような方針をとったことや、金融資本主義のシステムに完全に組み込まれてしまい、投資、投機の対象になってしまったことが要因として挙げられるのですが、農業と同様の「豊作貧乏」という構造的な問題も無視できません。
  いくら地形、土壌、自然条件に恵まれて、豊かな実りをもたらす土地であっても、単に農業生産をしているだけでは、大した儲けにはならないのです。北海道は恵み豊かな土地ですが、経済はかなり厳しい状況です。公共事業依存型からの脱却をめざし、いろんな努力が続けられていますが、全体を活性化するには至っていません。
  工業も農業と同じ道を進んでいますね。いくら頑張って生産性を上げても、ちょっとばかり品種改良(差別化、高品質化、高機能化)を図っても、価格競争から簡単に抜け出せないという、構造的な問題を抱えています。車だって電機だって日用品だって、誰でも簡単にそこそこのものを安く、大量生産できるようになれば、そこでほぼ目標は達成されてしまうのです。
  それでも新興国、途上国にとって、細々と農業を続けるより、多くの雇用を吸収でき、農業と比べると高く、安定した賃金が得られる工業化の魅力は薄れないでしょうが、農作物同様、安く買いたたかれる運命にあり、戦後、日本のようなサクセスストーリーはちょっと期待できないでしょうね。
  そういう意味では、日本はテレビを“捨てる”のは正しい選択でしょうね。途上国と同じようなものをつくっていても仕方がないのです。いずれ自動車やデジカメなんかも同じ運命をたどることでしょう。
  欧米はポスト工業化に対応するため、サービス業に力を入れましたが、何のことはありません。金融ばくちと不動産ころがししかできなかったのです。
  根本には、他人から搾取することで自分だけが生き残ろうという卑しい発想があること、そして、本質的には頭が悪く、ある程度のレベルに達すると、創意、工夫ができず、根気、粘りもないので、あっさりとアジア人に追い越されてしまうのです。また、中国人なんかはパクリもうまいので、そうなると、欧米人の生き残る道は完全に閉ざされてしまいます。
  日本のソフトパワーは、じわじわと広がり、しかも、一度つかむと、なかなか逃れられないので、地道な努力を続ければ、それなりの成果を得られることが期待できます。
  韓国なんかは国が主導で韓流を売り出したり、中国も漫画とかサブカルチャー研究をしていますが、国が乗り出しても、ろくなことはありません。日本はサブカルチャーの国ですが、主流に対して、冷めた目(ある意味上から目線)で見ていたり、どんな状況でも我が道を行くという、他国にはない土壌、気質があるからできたものです。
  誰かが音頭を取ったからといって、いいものが生まれるとは限らないのです。欧米でも、中国でも、韓国でもない、ポスト工業化の“第3の道”が生まれるポテンシャルは非常に高いとみています。