源流を訪ねて



  春が来たら太陽の光を思う存分浴びて運気をためようと思っていましたが、天候不順の日が多く、しかも強風や場所によっては竜巻によって甚大な被害が出るという、これまで経験したことのないような気象状況になっています。これも、この先世界で起きようとしている大パニックを暗示しているのでしょうかね。
  先日、西荻窪のラーメン店「支那そば いしはら」を訪問した折、素晴らしい天気だったので、ちょっと足を延ばして、近くを流れる川伝いに散歩し、善福寺公園へ行ってきました。




  あまり知られていないですが、善福寺公園は、23区西部をチョロチョロと流れ、隅田川に合流する「神田川」の源流があります。神田川というと、コンクリートで固められた掘割のような狭い川幅を流れるので、ドブ川のようなイメージがあり、実際に生活用水が垂れ流されたり、廃棄物投棄が規制されていなかった時代は、汚かったらしいのですが、元々は、都心に飲み水を供給するための用水であり、大元は湧き水なので、「清流」なのです。




  源頼朝が奥州征伐へ向かう途中、立ち寄ったことでも知られ、飲み水を掘るために地面を掘ったという言い伝えがあり、なかなか水が出なかったため、「遅の井」と名付けられた井戸の跡が今でも残っています。そういう意味でも由緒ある場所なのです。




  水源地となっている池は、水辺に水生植物が生い茂り、都会とは思えないほどの自然を感じられます。池の周囲もうっそうと森が覆っていて、こもれ陽と吹き抜けるそよ風が心地よく、時間が流れているのを忘れさせられるぐらい穏やかです。池の端ではカモが楽しげに水遊びをしている姿も見られ、まさに都会のオアシスですね。
  こういうのをまさに「ビオトープ」というんでしょうね。人間がむやみに手を掛けなければ、その土地が持っている本来の自然が簡単に復元されるのです。




  余談ですが、自然の力をあなどってはいけない。というより、人間が科学で自然を押さえ付けられると考えるのは傲慢な発想です。チェルノブイリ原発の周辺は、人間が立ち入らなくなったため、植物がうっそうと生い茂り、元の自然に戻りつつあるということです。別に放射能を浴びて、巨大な樹木や草花が出現したり、モスラのような巨大生物がいるわけでもありません。
  東京やニューヨーク、上海だって、人間の活動が停止すれば、ものの2、3年で雑草がはびこり、植物が徐々に浸食し、荒れ地になってしまうということです。人間が自然を支配しているというよりは、自然の力を押しのけて、生息地を守っているとみた方がいいかもしれません。




  話はそれましたが、神田川の源流は、一般には、吉祥寺の井の頭公園とされています。それ以外にもあって、杉並の善福寺公園や、妙正寺からも流れ込み、中野区、新宿区あたりで合流して神田川になります。
  水源は三つとも、関東ローム層からしみ出した水なので、神田川を流れている水は、本当に飲めるぐらいきれいな水だと言ってもいいぐらいでしょう。


  神田川沿いは、自転車や歩行者が通れるぐらいの遊歩道や生活道路になっていることが多く、ちょっとしたウオーキングに最適です。
  学生時代に暇を持て余していたことがあって、「神田川を上っていったら、どこにたどり着くだろうか」と思い立ち、「源流探し」を決行したことがあります。「もしかすると奥多摩あたりかなぁ」と思って、それなりに気合を入れて、自宅アパートを出発したのですが、途中で薄々「井の頭公園あたりだろうな」と気付き、そしてそれが正解であることが分かり、ややがっかりした覚えがあります。




  インターネットで流れる情報がまだそれほど充実しておらず、図書館で調べるか、直接役所に問い合わせる以外に、神田川について調べる手だてがなかった時代でしたから、ちょっとした冒険のわくわく感はあったんですけどね。
  「もしかすると奥多摩あたりまで行ってしまうのかなぁ」と思って、長旅を覚悟していたのですが、川筋がくねくねしていて多少時間はかかったものの、わずか数時間で源流にたどりついてしまい、吉祥寺駅前で立ち食いそばか何かを食べ、そのまま中央線に乗ってあっさりと引き返しました。
  「どこか行きたいんだけど、あまり遠出はしたくない」とか、「手軽に体力づくりをしたい」「歩くのが好き」という人には、この源流をたどるルートは、お試しの価値はあるかもしれません。


  スタート地点は隅田川との合流地点から設定すると約25キロの道のり。半日がかりでしょうかね。御茶の水あたりや、高田馬場、中野など距離と所要時間に応じて調節すれば、それぞれの状況に応じて、最適なコース設定ができるでしょう。
  自然環境に恵まれた場所にお住まいの方からすると、「なんだそんなもの」みたいな話なのですが、都区部に住んでいる者にとっては、ちょっとした自然の息吹と、非日常性を味わえる、ささやかなレジャーなのです。