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解放の日まで

  政治、経済の状況をウオッチしていると、欧米の崩壊と、世界秩序の大きな変革は間近だと思いますが、現時点ではそれにあらがおうとする動きも強いので、本当にもどかしいし、歯がゆい限りです。
  現在の状況は第2次世界大戦にたとえるならば、ミッドウェー海戦で日本が惨敗し、徐々に破局へと進んでいくあたりでしょうか。リーマン・ショックでほぼ決着がついたにもかかわらず、なかなか先へと進みませんね。「アンネの日記」のように隠れ家に身を潜めながらドイツ軍の動向に一喜一憂している状況でしょうか。平和な時代から振り返ると、「もう少し我慢すれば戦争が終わって新しいスタートを切れたのに」と後講釈でそう考えてしまいますが、あの頃、戦禍の中にいた人は、それどころではなかった。勝つか負けるか分からないし、明日をも知れぬ身でした。
  だから、10年後に2012年を顧みて、「慌てなくても、少し待てば欧米は崩壊し、野蛮な支配から開放されるんだけどな」と笑っているかも知れませんが、今を生きる人間からすると、早く事が進んでほしいし、わずかな動向でも気になり、切実な問題なのです。それに10年たっても状況は変わっていなかったり、逆に悪化していたりする可能性だってあり、笑っていられる状況ではないかもしれません。
  陰謀論の人なんかは欧米が借金を返せなくなって計画倒産して、リセットした上で新しい秩序を構築して、世界支配を強化するみたいなことを主張していますが、賛否半々ですね。今の状況を見る限り、巨大企業によるグローバル支配が進み、ある意味、一般大衆の“奴隷化”が進む半面、映画やアニメのように単純な図式で事が進むのかなという疑問もあります。
  現在の世界の指導者層は、頭の悪い白人、そして予想外に従順だった日本人を手なずけててきただけなので、過去の「成功体験」にとらわれているのでしょうが、中国やインド、イスラム圏を完全に支配しようとなると、一筋縄ではいかないでしょう。
  これまで世界の発展から取り残されてきた地域ですが、欧米が近代科学を武器に、緒戦で電撃勝利したにすぎず、時間がたち、反転攻勢の形勢が整うにつれ、いまや攻守が逆転しつつあります。何より、近代科学の礎となる学問が生み出されたのは中国やインド、イスラム圏であり、欧米人と違ってはるかに頭の回転が速く、かつしたたかさを持っています。
  どう考えても頭の回転の鈍い欧米人、そしてそれを陰で支配する狡猾な金融ユダヤ人が支配しきれるのかどうか。中国なんかは面従腹背で、表面上従順なふりをするかもしれませんが、利用価値がないと判断すれば、簡単に切り捨ててしまうでしょう。
  欧米は工業化と植民地支配によって世界を主導し、それが限界だとなると、金融資本主義によって活路を切り開こうとしましたが、自分自身が、金融資本主義の害毒の中毒に見舞われ、にっちもさっちもいかなくなっています。
  確かにこうなると「計画倒産」が現実味を帯びるのですが、その先のシナリオが描き切れているとはいえません。ここへ来て、金融資本主義を続けようと悪あがきする姿勢を見せており、この辺は、陰謀論者の考える筋道とは齟齬が生じつつありますね。
  現在の金融資本主義を守る動きが、次の支配体制を確立するための時間稼ぎだとして、計画倒産にこぎつけたとしても、やはり数の力が強いでしょう。どうしても台頭する中国的なイスラム的なインド的な考え方に引っ張られるでしょうから、机上の理論通りにはいかないでしょう。
  野蛮な欧米の支配が終わったからといって、次の時代が平和で幸せだとは限りません。不都合な真実を突きつけられる可能性だってあります。
  ただ、自然の流れにそむいても、それは長続きしないということだけは言えるでしょう。緒戦では戦力が上回り勝ちを収められたとしても、長期戦になれば、総合力で上回った方が勝ちを収めるのです。だから、欧米に勝ち目はありません。
  欧米を見ていると、人間というのはとことん醜くなれるんだろうなと認識させられましたし、その汚い本性は日本人だって中国人だってインド人だってイスラム圏の人だって未開の地の素朴な人たちだって持っています。ただ、あまりにもやりすぎたし、堕落しすぎましたね。
  何事もほどほどというのが必要で、一方に傾きすぎると、往々にして揺り戻しがあります。他人から強引に奪ったり、搾取することに対して当の欧米人を含めて、嫌悪感が広がっています。
  欧米が沈没すれば、相対的に中国が浮上するでしょうが、中国は一体何を考えているのだろうか? まだ全貌が見えてきません。
  歴史的に中国では人の上に立つ者は「徳」があるとされてきましたが、その徳を強調するために悲劇が繰り返されたことも事実です。民を飢えさせないのが善政であるともされていますが、歴史的にみて、実践されたのはほんの短い期間です。
  まあ、それでも、元々「徳」を持つ資質のない欧米人が無能のくせに大手を振ってきた時代は終わりつつあるのです。日本は欧米にくっついて生きてきたので、中国が台頭しても、必ずしも「解放」された感覚を持てないかも知れません。中国に対する悪感情が続いていることを考えると、むしろ中国が世の中を悪くしているとすら考えるかもしれません。
  先の大戦は、日本人の傲慢と、当時の指導者の頭の悪さが悲劇的な結末を招き、東アジアに無用な恨みの感情を残すだけの結果となりましたが、「非白人に対する白人の抵抗」という側面は否定できません。白人への抵抗を抑えつけること、すなわち世界支配を正当化するために徹底的に日本がたたきのめされたというのも歴史の真実です。
  そこに立ち返れば、不思議と日本と中国で歴史認識が一致する点も少なからずあり、しかも、野蛮な白人支配に終止符を打ち、新しい方向に世界が向かおうとしているという大きな歴史の流れが見えてくるのではないでしょうか。そういう意味でやはり欧米の没落は私たちにとって“解放”といえるのです。

ポスト工業化社会

  工場を建てて、あるいは誘致して、工業製品を生産し、輸出したり、国内で消費したりすることで、外貨を稼ぎ、国民所得の拡大を目指すというパターンは、成功モデルとして、広く認識されてきましたが、これから先、この“黄金律”は簡単には通用しなくなるでしょうね。
  お金やモノ、技術、人が自由に移動できるようになった結果、工場も簡単に国境を越えられるようになり、インフラや税制、補助金、労働コストなど、よりよい条件を求めて、短期間で簡単に生産拠点を移すことができるようになりました。工場ができたからといって、長期的に安定して生産が続くとは限らないのです。
  しかも、価格競争が進み、生産が徹底的に効率化、合理化されるようになった結果、工業化することによって得られる利益は激減し、労働者に支払われる賃金も抑えられます。だから、工場をつくったからといって、かつてのように簡単に豊かさに直結するとはいえなくなりました。
  日本の高度成長期を振り返ると、本当にめぐまれた時代だったと言えるでしょう。工業製品全体の需要が右肩上がりだった上、価格下落圧力も現在に比べてはるかに弱く、より付加価値の高い高級品が売れるという好条件がそろっていました。
  企業は単純な右肩上がりの成長に合わせて、緩い経営方針で臨めたし、社員、工場で働く従業員も、賃金がどんどん上がり、さらに所得効果で、利幅の高い高級品が売れ、国全体が好況になるという、好循環が続き、世界第2位の経済大国の地位が数十年にわたって続きました。絶頂期には実質的に1人当たりのGDPが米国を抜き、瞬間的に世界一にもなりました。
  その頃と比べると、格段に製造業の力は落ちています。もちろん、日本が経済大国として台頭し、自らの地位が危うくなった米国が製造業の力をそぐような方針をとったことや、金融資本主義のシステムに完全に組み込まれてしまい、投資、投機の対象になってしまったことが要因として挙げられるのですが、農業と同様の「豊作貧乏」という構造的な問題も無視できません。
  いくら地形、土壌、自然条件に恵まれて、豊かな実りをもたらす土地であっても、単に農業生産をしているだけでは、大した儲けにはならないのです。北海道は恵み豊かな土地ですが、経済はかなり厳しい状況です。公共事業依存型からの脱却をめざし、いろんな努力が続けられていますが、全体を活性化するには至っていません。
  工業も農業と同じ道を進んでいますね。いくら頑張って生産性を上げても、ちょっとばかり品種改良(差別化、高品質化、高機能化)を図っても、価格競争から簡単に抜け出せないという、構造的な問題を抱えています。車だって電機だって日用品だって、誰でも簡単にそこそこのものを安く、大量生産できるようになれば、そこでほぼ目標は達成されてしまうのです。
  それでも新興国、途上国にとって、細々と農業を続けるより、多くの雇用を吸収でき、農業と比べると高く、安定した賃金が得られる工業化の魅力は薄れないでしょうが、農作物同様、安く買いたたかれる運命にあり、戦後、日本のようなサクセスストーリーはちょっと期待できないでしょうね。
  そういう意味では、日本はテレビを“捨てる”のは正しい選択でしょうね。途上国と同じようなものをつくっていても仕方がないのです。いずれ自動車やデジカメなんかも同じ運命をたどることでしょう。
  欧米はポスト工業化に対応するため、サービス業に力を入れましたが、何のことはありません。金融ばくちと不動産ころがししかできなかったのです。
  根本には、他人から搾取することで自分だけが生き残ろうという卑しい発想があること、そして、本質的には頭が悪く、ある程度のレベルに達すると、創意、工夫ができず、根気、粘りもないので、あっさりとアジア人に追い越されてしまうのです。また、中国人なんかはパクリもうまいので、そうなると、欧米人の生き残る道は完全に閉ざされてしまいます。
  日本のソフトパワーは、じわじわと広がり、しかも、一度つかむと、なかなか逃れられないので、地道な努力を続ければ、それなりの成果を得られることが期待できます。
  韓国なんかは国が主導で韓流を売り出したり、中国も漫画とかサブカルチャー研究をしていますが、国が乗り出しても、ろくなことはありません。日本はサブカルチャーの国ですが、主流に対して、冷めた目(ある意味上から目線)で見ていたり、どんな状況でも我が道を行くという、他国にはない土壌、気質があるからできたものです。
  誰かが音頭を取ったからといって、いいものが生まれるとは限らないのです。欧米でも、中国でも、韓国でもない、ポスト工業化の“第3の道”が生まれるポテンシャルは非常に高いとみています。

新・投資立国論

  リーマン・ショック前に、竹中平蔵さんとか勝間和代さんなんかが「投資ブーム」をあおって、得体の知れない金融商品や、リスクが低いとされた投資信託に、多くの人が飛び付いた結果、世界的な株価低迷や歴史的な円高により、ほとんどの人が資産にダメージを受ける結果となりました。株価は小康状態にありますが、その前に投げさせられた人もいるでしょうから、結局、勝ち残ったのはたんす預金をしていた人たちや、コツコツと金を買った人たちくらいでしょうかね。
  投資をあおる人たちは、「お金がお金を産む」という虫の良い幻想に取りつかれているか、欧米の金融ばくちの片棒をかついでいるかのどちらかでしょう。竹中、勝間両氏はこの両方にあたりますね。2人とも確信犯というより、むしろ本当にだまされているフシがあるので余計にタチが悪いです。
  投資の原則としてまず確認しておきたいのは、お金にお金を産ませるというのは、とても難しいということです。あるいは極端な話、ほぼ不可能といってもいいかもしれません。
  現実には国は借金をする際、国債を発行し、利子を付けて返済するのですが、利子自体微々たるものである上、利益のほとんどは、無能な巨大金融機関の社員を養うために持っていかれます。住宅ローンや企業向け融資にしても同様です。
  では、どうしたら個人が投資をして、安定的に稼げることができるでしょうか? 継続して一定の配当が出る株を持つというのが一番理想的なんでしょうけど、そうめったにあるものではありません。少子高齢化で中長期ではじり貧で配当は得られても元本が目減りする恐れが大いにあります。
  また、東京電力のようにかつては「絶対的に安泰」の代名詞だったような銘柄でも、たった1回の事故で、配当はおろか元本もパーになってしまいました。横綱、トヨタ自動車なども同じようなことがあり得るということです。
  経済情勢が目まぐるしく変わる中、投資の王道なんてまずあり得ませんよね。私は中国株が本格的にブームになり、ブレイクする前に仕込んだので、元本は(時価ベースで)増え、しかも毎年、それなりに配当収入を得ていますが、これだっていつまで続くか分かりません。
  日々、金融市場と向き合い、皆さんも身をもって体感していると思いますが、お金を守る、あるいはお金を増やすというのはいかに難しいことか、それをあらためて認識しつつも、放っていると米国に搾取されるだけなので、手をこまねいているわけにもいかず、どうやってサバイバルしていくか考えなければなりません。
  一時期、子供の頃から、若いうちから投資教育をする必要があるみたいなことがいわれましたが、誰から、一体何を学ぶのでしょうか? 投資についてきちんと教えられる、伝えられる立派な先生がどこにいるのでしょうか? 投資について知らない人に胸を張って、投資でこんな結果を出したんだと言える人は一体、日本にどのくらいいるのでしょうか?
  誰もが投資について経済の仕組みについて知りたいとは思うものの、的確に教えてくれる人はいないし、ましてや英語や数学の成績が上がるように、確実に結果を出せると保証してくれる人はいません。投資のプロであるはずの証券マンはなぜ会社勤めをするのでしょうか? エコノミストやアナリストは、偉そうに講釈を垂れるのであれば自分で言っていることを自ら実践すれば、リッチになっているはずなのに、なぜ、おいしい話を惜しげもなく私たちに教えてくれるのでしょうか?
  明らかに矛盾だらけであるにもかかわらず、投資教育をしろみたいなことを政治家や学者、金融機関が無責任に言い出すのはまったくもって腹立たしいし、それを通り越して滑稽というかあきれてしまいます。そろいもそろって米国に国富を貢ぎ、搾取の片棒をかついでいる連中がどの口で「投資」なんてことを言うんでしょうかね。
  逆説的ですが、世間では、まっとうな人だと思われ、それなりの地位、役職にいる人が、からっきし世の中のことを知らないし、現在の世界システムの中では奪い取られる側にいるにもかかわらず、自覚していないので、各自、自らの身を守るために、本当の意味での「投資」について考え、研究する必要があります。
  世界経済は一貫してプラス成長が続いているので、収益の機会はあるはずなのですが、上述したように、おいしいところの大部分は金融機関や一部の利権集団にもっていかれるので、残りかすをめぐって激しい争奪戦が繰り広げられることになります。
  基本的には、まずすべてを徹底的に疑ってかかることでしょうね。サブプライムバブルの破裂で、世界経済がインチキの上で成り立っていたことが証明されたように、安全、確実なものは何もないということを肝に銘じないと、足元をすくわれかねません。
  その中で、相対的に価値のあるもの価値のないもの、強いもの弱いもの、世の中で必要とされているもの必要とされていないものなど、シビアに見抜く力をつけていければ、少しずつ投資力はつくでしょう。
  この十数年、金融市場をつぶさに見てきましたが、一般の人が誰でも儲けられるような投資のチャンスは、ほんの一時しかありません。だから、あまり欲をかかないことも大切ですね。ブームに踊らされるだけというのは最悪です。
  すべてを疑いまくって、いい奴、ダメな奴を冷徹に選別できるようになれば、一人前の投資家です。なかなか身に付けるのは難しい技術ですが、原理としてはスーパーで、いい商品を見極める、いわゆる目利きと同じです。
  それと、私たちにとって最大の武器は「空売り」ができるということですね。ダメな奴は売り倒してやればいいのです。常々、相場を撤退するのはショートで踏まれるパターンが多いということを言っていますが、時期がくれば、ショートに適した地合いもあるのです。状況に応じて、買いで儲けられるし、売りでも儲けられるのです。
  目利きと、流れを読む力さえあれば、大抵の場合、投資でそこそこの結果を出すことができるはずです。品質やサービスの質を見極める力を日本人は持っています。しかも世界でもずば抜けています。だから、平和ボケから目を覚まし、本質を見極める力を体得すれば、投資立国として十分やっていけるポテンシャルはあると思います。

勝負どころ

  ギャンブルは弱いし、普段金融市場にかかわっているので、あまり必要以上に運を使うようなことはしたくはないのですが、今年に入ってから何回か、麻雀をやる機会がありました。いずれも大勝したのですが、たまにやると、学ぶことが多いですね。
  正直、最初は乗り気じゃなく、どうしても人数がいないということで、しぶしぶ参戦したものの、終わってみればほぼ一人勝ちの状態で、ハコテンになりかけても、驚異的な粘りで息を吹き返して、半荘ベースですべて勝ち越し。逆に周りの人たちを白けさせてしまいました。
  後講釈にすぎないのですが、麻雀の極意は、「運気の流れを読む」ということですね。いくらこちらの手がよくても、自分よりツイている人がいれば太刀打ちできません。たとえ、こちらが役満をテンパっていていも、安い手であっても先にあがった奴が勝ちなのです。当たり前のことですが重要なことです。
  かつての自分もそうですが、弱い奴に限って、「国士無双でアガリ損ねた」とか「ほぼ数暗刻出来上がっていた」みたいなことをやたらと未練がましく言いますが、アガレなければ、ゼロに等しいのです。ましてや放銃した場合は、マイナスです。
  しけた配牌でも、早くアガれば、安くても勝ちは勝ちだし、大きな手をつくり上げつつある奴の運気や、連続でアガっている奴の流れを断ち切り、自分に運気を呼び寄せるきっかけになることが往々にしてあります。麻雀とは、まさに他人の気を乱し、吸い取り、自分に集めるゲームですね。
  一番難しいのは、勝負どころの見極めです。そこそこいい手であっても、周りがどこまで攻めているかによって、そこから進展させるか、それとも、とても及びそうにないなら、勝負から降り、せめて放銃しないようにするか、捨て牌や表情だけでは読み切れず、しかも、運に乗っている人は、多少手が悪くても、いい牌をすぐにそろえてくるので、勘を働かせないと難しいですね。
  ただ、2、3局もやっていると、うっすらと誰に運があるかは、大体想像がつくので、少なくとも運のある人をフォローし、気を付けていれば、ほぼ間違いはありません。その一方で、次に誰が流れを呼び寄せるかも注意しなければならないのですが。
  最も気を付けなければならないのは、自分自身が運に乗っている時ですね。欲張ってアガリ損ねたり、逆にもう一手たたみかければ、完全に決着がついてしまうのに、結局しょぼい手でアガってしまい、自らの失策で他人に運や流れを譲り渡しかねません。アリの一穴というか、自分に回っている運をうまく活用できなければ、そこからほころびが出て、そこを突かれると簡単に負けてしまいます。
  他人がテンパっている時に、追っかけでリーチをかけるかも、重要な勝負どころですね。これこそまさに「運試し」です。勝ち抜けることができれば、一気に運や流れを引き寄せられるし、負けた時のダメージも大きいです。そこは麻雀の究極の醍醐味です。
  勝ち抜ける自信がなければ、ヤミで待つこともできます。手を変えたり、最悪、勝負を降りてもいいわけで、この辺もうまい下手が分かれるところです。
  勢いに乗っている時は畳み掛けなければならないし、分が悪いときは、逃げるが勝ち、あるいは負けても損を最小にするように早々と勝負を降りるのが得策です。
  入ってくる運気を最大にし、出ていく運気を最小にする。そこが麻雀のツボなのかなぁ、と勝手に思い込んでいます。麻雀にかかわらず、ほかのギャンブルや勝負事もそうだし、トレードも同じですよね。何事も勝負どころを外さないことが大切です。

寛容

  最近の若い人を見ていて、「かわいそうだなぁ」と思うのは、失敗することを許されていないことです。全く失敗できないというのは、言い過ぎかもしれませんが、日本全体が余裕をなくしていて、失敗に対して怒りつつも「若い人がやることだから仕方がないか」とか「次は頑張れよ」みたいな雰囲気はすっかり失われてしまいました。
  それどころか、一度の失敗でその人のキャリアが全否定されてしまうというか、ネガティブな評価がつきまとってしまうという、非常に窮屈な時代になってしまいました。若い人に対してだけでなく、年長の人にも、仕事に対して厳しい目が向けられてはいますが、ある程度、経験や実績がある人と比べると、それがない分、圧倒的に若い人の方が不利ですね。
  若い人の間でも格差が起きていて、器用な人、要領がいい人、人当たりがいい人は、就職活動でも、入社してからもうまく行きますが、そうでない人は、あらゆるところで壁にぶつかります。失敗が重なると、すっかり委縮してしまうし、ひどい場合には、引きこもってしまう人もいます。
  10年くらい前は、まだ寛容さが残っていて、私なんかも結構、若気の至りで、偉そうなことを言ったり、上司にたてついたりしましたが、若者の横暴を温かく見守ってくれましたね。周りの人が忍耐強く付き合ってくれたことに本当に心から感謝したいと思います。
  今の若い人が、そういう言動をしようものなら、「協調性がない奴」「使えない奴」「ダメな奴」というレッテルを即座に張られてしまい、まあ、おそらく、十中八九、干されてしまうでしょう。それでも使い続けてくれるならば、その会社は懐の深い会社だと思っていいでしょう。
  問題なのは、若者の横暴を、制御したり、いなせる人がいないことです。今も昔も、どんなに偉そうなことを言っても、仕事ができない奴は評価されません。だから上の人間が、「これが仕事のやり方だ」みたいなお手本を示して、生意気な若い奴をぎゃふんと言わせればいいわけですが、そういう人はまずいませんからね。
  前任者から引き継いだことを粛粛とこなし、前と同じようにやっていれば、それだけで満足してしまうという人がいかに多いことか。自分に自信や余裕がないから、いつも不満を持つ若い連中を引っ張れないし、ちょっと扱いにくい奴がいれば、持て余してしまうから、外してしまえ、無視してしまえ、みたいなことになってしまいます。
  ゆとり世代の若い人たちのことですから、基礎学力はないし、考える力もないし、人とのコミュニケーション能力もない。そういう事情もあるのですが、会社が長期的な視点に立って粘り強く育ててあげる部分はあるべきだと思います。
  じゃないと、単に頭も要領もよいだけの人間しか存在できなくなってしまいます。そういう会社や社会って、ある目的を達成するだけなら強いですが、所詮はカネだけ、利益だけの関係でしか結びつかないので、弱いですよね。欧米がいよいよ限界に達し、中国や韓国の成長モデルにもいまひとつ信頼が置けないのはそういうところにあります。
  多少仕事で失敗しても、横暴が過ぎても、それでも受け止めてくれ、少しずつ一人前の社会人として磨かれていくというのが日本のモデルであり、社会全体の安定感を醸成してきました。
  もっと若い人に対して、幼いころから厳しく教育、しつけをするべきだとは思いますが、それと並行して、年長者はもっと若者に対して寛容さをもってきちんと向き合うべきだし、リスペクトされるよう自分を磨かなければならないでしょうね。
  人間ができることなんて知れているんですけど、それでも年上が若い世代に範を示せるくらい実力をつけ、自信を持たないといけないですよね。ただ、私の周りの上の世代は、右肩上がりで何の苦労も努力もせず、おかしな権利意識、世界観に取りつかれた人が多く、あまりリスペクトはできませんでしたけどね。
  それでも、しかるべき関係を年長者と年下が持てなければ、結局、年下の人たちも、同じように年長者になった時に、年下からリスペクトされないという、悪循環に陥るわけで。
  全体的に感じるのは、日本人は自分より若い人とのコミュニケーションを取るのが下手だし、無関心すぎます。いずれは若い人に支えてもらうことになるのだから、もっともっと若い人のことを考えてあげるべきだし、ときには気兼ねせず、摩擦を恐れずに言うべきことは言うべきだと思います。
  日本人は長期的視点に立って物を考えるのが下手だから、こういうところはもろに弱点がですよね。でも、いい国、住みやすい社会を継承していくには、その辺の努力をしていく必要があるでしょうね。